いつかも妻は、自分の傍に来て、子供のことにかこつけて云つたことがあつた。
「もう、お父さんの肌の温さは、坊や、私が寄りつけない程冷たくなりましたのね」
 男は偶と心が痛くなつて頭を上げた。
「直子さんしつかりしてゐて下さい」
「えゝ」
 頬が涙で冷たかつた。お互ひに家庭のことが通ひすぎたからだ。
「私、あの店を止める積りでをりますの」
「さう、それはいゝ――僕が、直子さんの生活位は引き受けますよ」
「いゝえそンなこと、私、母と子供がありますもの、どんなことをしたつて働かなければ――只、あのお店は、私にはやりきれないンです」
 いひやうのないヒッパクした気持ちであつた。雪解けの、公園のやうになつた波止場の前に自動車が止つた。港に碇泊してゐる船の小旗が波の音と一緒に、パタパタきつく風に鳴つてゐる。小さい犬を連れた金髪の少女が白いベンチに凭れて唄をうたつてゐたり、黒ん坊の男が呆んやり立つてゐたり。
「このまゝ二人で外国へでも行くンだといゝナ」
「色ンな美しい国が、この海続きにはあるンでせうね、一人ぽつちだつたら、そンなところへでも行けるンでせうが――この儘、一生、私、こんな暮らし方なンでせう
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