におかれた天眼鏡は、ひどく灰つぽくくもつて、雪に濡れてゐた。
「私、子供と離れてもいゝでせうか?」
「まづ、今年いつぱいは手元を離さぬ方がよろしからう‥‥病難のおそれがある」
「此商売は長く続けていゝでせうか‥‥」
「いや、長続きはよろしくない」
「まア‥‥」
「そちらの方、ひどく剣難が出てゐるが、‥‥見てあげませうかの」
 直子は急に肩をあげて、焼鳥の屋台の蔭に犬のやうに隠れた。

 5 自動車は快く京浜国道を走つてゐる。
 雪晴れの温かい夕方、どこからか汐の香が鼻を打つて来る。――直子はその汐の香だけで満足したかのやうに、さつきから眼を伏してゐる。
「直子さんは、いま何を考へてゐる?」
「私? 何だか子供の頃のこと偶つと思ひ出してゐます」
「子供の頃のこと、直子さんの子供の頃はどんなだつたンだらう‥‥」
「もつと、いゝ生活が、清らかな暮らしが出来るやうに考へてゐましたわ」
「さう‥‥では、いまは清らかぢやない?」
「とても濁つてゐるやうに考へる時がありますわ。おしまひには死にたくなつてしまふし――」
「馬鹿なこといつちやアいけないよ、僕達は真面目にならなくちやアいけないね」
 海が
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