粒は鏡の前に立つた。
「ねえ、随分トゲトゲした顔になつちやつたわ。なまじ恋なぞすまじきものね、岡田さん、私、このごろ、ヘトヘトに自分に疲れつちまつた‥‥」
 岡田はもとより、百合子もサトミも、勝気でゲスなお粒の思ひがけない優しい言葉なので、とまどひしたやうに吃驚してしまつた。だがその驚きは妙にその場の空気をセンチメンタルにしてしまつて、ひどくしんみりとした雰囲気をかもし出してゐた。
「なまじ恋なぞすまじき事か、全くだ、大地震よりこはいからねえ」
 偶と、サトミは蓄音機の前に立つてレコードをめくつた。
[#ここから2字下げ]
雲の飛ぶよな
今宵のあなた
みれんげもない
別れよう‥‥
[#ここで字下げ終わり]
 お粒のきらつた唄ではあつたが、それが此場合ひどくしつくりとして、ジジ‥‥とレコードは廻転してゐる。
「だからさ時の流れを待つばかりね」
 サトミが思ひ出したやうにこんな事を云ふと、お粒は鏡の中からニッコリして「さうでもしなくちや、やりきれないわ」とまるで少女のやうにすなほであつた。‥‥誰が悪いのでもない、みんな宿命なのだ、と、さう百合子もサトミの傍に歩んで行つて、香りの高い支那煙草のミュズに火を点じた。

 7 ――どんなになるかもわからないけれど、まだ生きてはゐます。一度、あなたに会ひたいと思ひながら、本意なく過ぎてゐます。この儘過ぎて行く事が恐い‥‥元気でゐて下さい。――雪がすつかり溶けてしまつた日、せん子は直子からこの様な手紙を受けとつた。子供があると云ふ境遇も似てゐたし、病身な夫を持つてゐたと云ふ事も同じであつた事から、せん子にだけは、直子は何でも云へるのであろう。せん子はせん子で、直子がゐなくなると、妙に、考へる事が多くなつた。
 料理店リラのこのごろは、お粒が静かになつたのと一緒に、ひどく雰囲気がめいつて見えた。

 今日もまた、雀をどりの唄が、女の唇から流れて来ると、地声の大きい操が、サトミや百合子の傍で悲鳴をあげてゐる。
「こんだけの沢山の女給と云ふものが、どンなになつて行くンでせうねえ。――私、昨夜、たうとう、ホラあの男と大森へ行つちやつたのよ、笑ふ? だつて仕方がないンだもの――」
 百合子は眼を円くしてゐた。
 サトミは冷いセルロイドの櫛で、百合子の断髪をくしけづつてゐた手を止めた。
「私生きてゐたくないわ。誰でも相手になつてくれる人があつ
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