見え出した。二人とも沈黙つてしまふ。だが沈黙つてゐると、二人とも何かにせきたてられるやうな気持ちであつた。
二人とも強く愛しあつてゐながら、なぜか悲しいことに、各々の家庭のことを憶つてゐた。――直子は、庭の見えない三畳の部屋で、一人で積木をしてゐる子供の姿や、眼の薄くなつた母親の事を考へてゐた。
「もう五ツにもなつたのだから? 私が田舎へ連れて帰つて、何とか育てるから、お前は良い縁でもあつたら、かたづいておくれ」
孫の相手にヨネンのない母親の言葉が、妙に心に残つてゐた。だが、こんなに愛してゐる男には、妻があるではないか。子供が二人もあつた。
また、男は男で、長い間の家庭の習性を恐ろしく考へてゐた。
「お早うございます」
二人の子供と一緒に顔を洗つて、一緒に食卓について、「行つていらつしやいまし」と云ふ妻の言葉は時計のやうに何年か狂つたことがなかつた。つゝましく清らかな生活でありながら、妙に飄々と心の中に風が吹きこむこの気持ちはどうしたことだらう。
学生時代の思ひ出、外国生活の何年間か、みんな、妻にやましくない生活であつたが、今は、我命以上にも此料理店の給仕女を愛してゐる。
いつかも妻は、自分の傍に来て、子供のことにかこつけて云つたことがあつた。
「もう、お父さんの肌の温さは、坊や、私が寄りつけない程冷たくなりましたのね」
男は偶と心が痛くなつて頭を上げた。
「直子さんしつかりしてゐて下さい」
「えゝ」
頬が涙で冷たかつた。お互ひに家庭のことが通ひすぎたからだ。
「私、あの店を止める積りでをりますの」
「さう、それはいゝ――僕が、直子さんの生活位は引き受けますよ」
「いゝえそンなこと、私、母と子供がありますもの、どんなことをしたつて働かなければ――只、あのお店は、私にはやりきれないンです」
いひやうのないヒッパクした気持ちであつた。雪解けの、公園のやうになつた波止場の前に自動車が止つた。港に碇泊してゐる船の小旗が波の音と一緒に、パタパタきつく風に鳴つてゐる。小さい犬を連れた金髪の少女が白いベンチに凭れて唄をうたつてゐたり、黒ん坊の男が呆んやり立つてゐたり。
「このまゝ二人で外国へでも行くンだといゝナ」
「色ンな美しい国が、この海続きにはあるンでせうね、一人ぽつちだつたら、そンなところへでも行けるンでせうが――この儘、一生、私、こんな暮らし方なンでせう
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