与力《よりき》達と押し問答をしていた壁辰が、大きな声でこういうのが聞えた。
「はッはッは、この黒門町を怪《あや》しまれるなら、どうぞおはいりなすって、本人を御らんなすって下さいまし」
「はいるなと言っても、はいるのだ」
 満谷剣之助が、金山寺屋の音松ほか二、三人の捕吏《ほり》と、あるじの壁辰をつれて、ドヤドヤと茶の間へ踏み込んで来た。
 お妙が、喬之助の前に、庇《かば》おうとするように立っていた。壁辰は、部屋の真ん中にドッカリすわりこんで、がッしと腕を組んだ。四、五人の捕手《とりて》が、十手をひらめかして喬之助へ打ち掛ろうとした。
 すると、金山寺屋の音松が、喬之助を見て、頓狂《とんきょう》な声を揚《あ》げたのだ。
「お! こりゃア喧嘩渡世《けんかとせい》の旦那じゃアござんせんか――何《なん》ぼ酔狂《すいきょう》でも、そんな妙ちきりんな服装《なり》をしていなさるから。いやどうも、茨右近《いばらうこん》さまにかかっちゃアかないませんや」と、急にヘラヘラ笑い出して、すぐ呆気《あっけ》に取られている満谷剣之助へ向って、「旦那、これあ眼違《めちげ》えだ。このお方は、あのそれ、神田で名打ての喧嘩渡世の旦那、茨右近さまでございますよ、ねえ黒門町」
 喧嘩渡世――とはそも何か?
 その頃、神田の帯屋小路《おびやこうじ》に、「喧嘩渡世」という不思議な看板《かんばん》を上げた、粋《いき》な構えの家があった。喧嘩渡世と筆太《ふでぶと》に書いた看板の横には、小さく一行に「よろづ喧嘩買い入れ申し候」
 まことに尋常でない稼業《しょうばい》。
 あるじは、芸州《げいしゅう》浪人の茨右近。
 内儀《おかみ》は、白無垢鉄火《しろむくてっか》の「知らずのお絃《げん》」。
 じつにどうも変った組み合わせが変った渡世をしているもので――。
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│ 喧嘩渡世           │
│   よろづ喧嘩買ひ入れ申し候 │
└────────────────┘
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   お命頂戴

      一

 神田、帯屋小路《おびやこうじ》、
『喧嘩渡世』――という、奇抜《きばつ》な看板をあげた千本|格子《こうし》の家。よろず喧嘩買い入れ申し候、は実にふざけ切っているようで、これが決してふざけているのではない、正真正銘《しょうしんしょうめい》の真面目《まじめ》な稼業《かぎょう》なので――。
 芸州浪人の茨右近《いばらうこん》という男、これが、その、よろず喧嘩買い入れの喧嘩師で、叩くとかあん[#「かあん」に傍点]と音のしそうな、江戸前の生《いき》のいい姐御《あねご》がひとり、お約束の立て膝に朱羅宇《しゅらう》の長煙管《ながぎせる》、その喧嘩渡世の長火鉢のむこうで、プカアリ、プカリたばこをふかしていようという――知らずのお絃《げん》。
 どうして『知らず』のお絃というかといえば、このお絃、浮世絵師《うきよえし》が夢に見そうないい女で、二十|七《しっ》、八《ぱち》の脂《あぶら》の乗り切った女ざかり、とにかく、凄《すご》いような美人なのが、性来《せいらい》の侠気《きょうき》が禍《わざわ》いして、いつの間にかこうして女遊人に身を持ち崩し、右手の甲に墨青々と彫りこんだ二行の文身《ほりもの》。曰く、御意見無用《ごいけんむよう》、いのち不知《しらず》。この命知らずが、知らずのお絃の異名をとった謂《いわ》れなのだが――それはそれとして。
 ここに、世にも不思議なのは、主人の茨右近である。
 他人の空似《そらに》ということは、よくある。が、この茨右近は、あの、元日に殿中において戸部近江之介の首を打ち取り、それを御書院詰所の窓から抛りこんで逐電《ちくでん》して以来、いま復讐魔《ふくしゅうま》と化して、下谷黒門町の壁辰の許《もと》に逃げこんでいる神尾喬之助――かれに、似たといっても瓜ふたつ、そっくりなのである。
 西丸御書院番の神尾喬之助は、江戸一の、いや、ことによると日本一の美男であろう――というので、そのために、娘のお園より先に、伊豆伍夫婦が惚《ほ》れこんで、似合いの夫婦だ、内裏雛《だいりびな》だと、うつくしいものを二つ並べる興味に、まず親達のほうが騒ぎ出した、と前にいった。
 また、その喬之助が、七日のあいだ身をひそめたのち、七草《ななくさ》の日に、職人すがたに変装して、壁辰の家を訪《おとの》うたとき、いつものように手を拭きふき台所から出て行った娘のお妙は、その男のあまりの綺麗《きれい》に、もうすこしでおどろきの声を揚げるところであった。何しに役者が来たのだろうと思った。いや、三|座《ざ》の役者衆《やくしゃしゅう》にも、あんなのはちょっとあるまい――そう思った。父の壁辰でさえ、筆屋幸兵衛方の棟上《むねあ》げから帰って、茶の間《ま》に待っているこの喬之助を一眼見た時、「あの人相書とこの若僧! 服装《なり》かたちこそ変っているが、おれの眼力《がんりき》にはずれはねえ。それに、それほどの美男が、いくら江戸は広くても、そうざらにある筋はない。そうだ! この奴こそ、いま江戸中の御用の者を煙にまいている、神尾喬之助というお尋《たず》ねものに相違はねえのだ!」と、瞬間《しゅんかん》にして気がついたくらい、それほど、美男である喬之助だ。
 それほど美しい喬之助と、瓜《うり》をふたつに割ったよう、どっちからどう見てもまったく同じで、ほとんど区別のしようがないというのだから、江戸一、いや、日本一の美男がもうひとり出来たわけで、さすがに江戸は広い。神尾喬之助の分身ともいいたい、親兄弟でさえ間違えそうな茨右近――知らずのお絃と一しょに粋《いき》な世帯《しょたい》をかまえて、神田の帯屋小路にひらいている物騒な商売、自ら名乗って喧嘩渡世とは一体どういうことをするのであろうか。
 旗本奴《はたもとやっこ》ではない。といって、町奴《まちやっこ》では勿論ない。が、いわば巷《ちまた》の侠《きょう》である。町の男伊達《おとこだて》である。喧嘩渡世という看板をあげているとおり、喧嘩なら、何でも買うのだ。何でも買う。直接売られた喧嘩は言わずもがな、他人の喧嘩でも、助太刀《すけだち》さえ頼まれれば、いつどこへでも飛びこんで行って、理窟《りくつ》のあるほうに味方をする。ところが、喧嘩の場合、たいがい弱いほうに理窟《りくつ》があるに相場《そうば》がきまっているから、そこでこの夫婦喧嘩師の茨右近と知らずのお絃は、いつも大勢を向うにまわして、チャンチャンバラバラの場数《ばかず》を踏《ふ》んで来たのだが!――かつて負けたという例《ためし》がない。
 というのは、神尾喬之助に生きうつしの、まさるとも劣《おと》らぬ美青年の茨右近。その神尾喬之助が、虚心《きょしん》流無二の遣《つか》い手であるように、右近は、芸州浪人と名乗っているだけに、かの二見《ふたみ》ヶ|浦《うら》の片ほとりに発達しきたった、天馬《てんま》空《くう》をゆく独特の速剣《そくけん》、観化流《かんげりゅう》の大統《たいとう》をつたうる、当代|唯《ゆい》一の妙刀《みょうとう》であったからで。
 静中観物化《せいちゅうぶっかをみる》――という論語のことばを採《と》ってもって流名とした観化流《かんげりゅう》。

      二

 いま一般に江戸で行われている諸流のごとき、生《なま》やさしいものではない。
 静中にあって心身をしずかにし、まわりのものの変移流転《へんいるてん》の相《すがた》に眼をとめている――が、一度発するが早いか、石を絶《た》ち、山を裂《さ》き、人を砕《くだ》かずんば止《や》まざる底《てい》の剛剣《ごうけん》――それが、喧嘩渡世の茨右近である。
 加うるに、百|剣林立《けんりんりつ》のあいだといえども吾れいかんという、なに、そんな固《かた》ッ苦《くる》しいことは言わないが、とにかく、怖《こわ》いという感情を生れる時に忘れて来た、意地と張りとで固まっている美女、知らずのお絃《げん》という姐御《あねご》がくっついているのだ。
 鬼《おに》に金棒《かなぼう》。似たもの夫婦。
 これなら、どこの喧嘩へ顔を出しても、ひけをとることのないのが当り前で、江戸一円、何の喧嘩物言いと限らず、すこしむずかしいとなると、一切この喧嘩渡世へ持ちこんでくる。そしてまた、この帯屋小路から、茨右近と知らずのお絃がのこのこ[#「のこのこ」に傍点]出て行くが早いか、たいていの出入りが、二人を頼んだ方が勝ちときまっていたもので――さてこそ、商売として立派に立っていくわけ。
 こういう喧嘩渡世。
 観化流の剣豪《けんごう》茨右近も、見たところは、神尾喬之助と同じ背恰好《せかっこう》の、ほっそりした優《やさ》おとこである。それが、意気な姐御《あねご》の知らずのお絃と、こうして町家《まちや》ずまいをしているのだから、帯屋小路の家へ来ていると、紅のついたる火吹き竹……新世帯めかして、水入らずである。
 長火鉢のむこうに、芸者屋に生獲《いけど》りになった兄さんのように、荒い丹前《たんぜん》か何か引っかけて、女みたいな顔でやに[#「やに」に傍点]下っているのが、これぞ、江戸に聞えた喧嘩の専門家、観化流|皆伝《かいでん》の達剣《たっけん》、茨右近だ。
 が、そうは見えない。芝居が休みで、女形《おやま》が自宅《うち》にいるようだ。海苔《のり》か何か焙《あぶ》りながら、一本つけている。
「なあ、お絃、久しく暴風《しけ》つづきだな。きょうあたり、大きな喧嘩《やつ》を持ちこんで来そうな気がするのだが――おれはナ、どこぞに喧嘩のある時は、すぐわかるんだ。腕がピクピクしやあがって、おや、これあ来るぞと思っていると、必ず来る」
 呑気《のんき》なことを言っている。お絃は、お燗《かん》を引き上げた指先を、熱かったのだろう、あわてて耳へ持って行って、貝細工《かいざいく》のような耳朶《みみたぶ》をつまみながら、
「そうかえ。それは便利なものだねえ。それで何かい、きょうはその腕がピクピクしているのかえ」
 笑って訊いた。なるほど、そういうお絃の右の手の甲には、御意見無用、いのち不知《しらず》と、二行に割った文身《ほりもの》が読めるのだった。
「アハハハ」茨右近は、顔に似げなく、豪快な笑い声を揚げて、「それがヨ、今日は朝からピクピクしつづけているんだ。見ねえ、あんまりピクピクするもんで、酒がこぼれて、さかずきが持てねえのだ」
 右近は、酒杯《さかずき》を持った手をわざとふるわせて見せた。黄金《こがね》色の液体が杯《さかずき》のふちからあふれ落ちて、右近の手をつたい、肘《ひじ》から膝《ひざ》へしたたっている。
「お? いけねえ、何か拭《ふ》く物、ふくもの――」
「それ御覧、お米の水を、何だねえ、もったいない。着物だって、たまらないじゃないか。そんな真似《まね》をして見せなくても、わかっているのに。ほんとに、お前さんみたいに、世話の焼ける人ったらありゃアしない。さ、これでお拭きよ」
 ポンと投げて渡したふきんが、右近の顔に当たる。そいつを無造作《むぞうさ》に掴《つか》んで、そこらをふいている可愛い男の顔を、お絃は、食べてしまいたそうに、うっとり見惚《みと》れていようという、まことに春風駘蕩《しゅんぷうたいとう》たるシインだ。
 が、お絃はちょっとしんみりして、
「でも、ほんとに、今日あたり、喧嘩の一つも持ち込みがないと、困るねえ」
「まったくだ。こんなにアブレつづきじゃア、第一、からだが痩《や》せちまわア」
 喧嘩渡世だけに、夫婦の愚痴《ぐち》も変っている。
 そこへ、ガラッ! 威勢《いせい》よくおもての格子《こうし》があいて、聞き慣《な》れない人の訪《おとず》れる声がする。
「御めん下さい。喧嘩屋さんはこちらでございますか」
 喧嘩屋と来た。
 ソラ来た! と、ホッとした顔を見合わせた右近とお絃――さかずきを置いた右近は、そら見ろというように、ちょっと舌を出して、笑いながら右の腕《うで》を叩《たた》いた。
 お絃は、上《あが》り口のはしへ、からだを捻《
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