決して間違っていたとは思っていない。しかし――しかし、である。お妙も言った通りに、喬之助は、この壁辰は十手を預っている。ここは岡っ引きの家だと知って、飛び込んで来たわけではないのだ。じっさい一時、左官屋の職人にでも化け込んで、そのきびしい探索《たんさく》の眼を逃れようと思って、さてこそその獅子《しし》の口へ、みずからはいり込んで来たのである。窮鳥《きゅうちょう》ふところに入れば猟師もこれを殺さず――そんなむずかしい言葉は知らないが、お妙の言ったそんなような意味のことが、ハッタと壁辰の十手を叩き落としたのだ。そうだ。自分がいまこの士を捕《と》ったところで、そりゃア何もおれの手柄になることじゃアねえ。それに――それに、娘も、このお侍を思――えエッ! そ、そんなこたアどうでもいいが、壁辰も男だ、ここは一番眼をつぶって、神尾喬之助を落してやるなり、また何かの相談に乗ってやるなりするとしよう。じぶんの手一つで手塩《てしお》にかけた一人娘のお妙の頼みである。まかり間違えば、おれが自分で、われとわが身に繩を打てば済むのだ――と思ったから、そこは、解りの早い江戸ッ児だ。黒門町だ。たちまちそこへ、ガラリ! 十手を抛り出して、壁辰はにっこり[#「にっこり」に傍点]したのだった。
「おい、お妙、乙《おつ》なことを言うぜ。背中の児に浅瀬《あさせ》を教わるとはこのことだ」と、そして、お妙の背をさすって、「もういい、笑え、笑え。父《ちゃん》も、年をとったら気が短くなってナ――ねえ神尾さま、あなたも一つ笑って下せえまし。笑って、まアゆっくりとお話を伺おうじゃアありませんか」
 別人のよう、自分から先に立って茶の間へ通り、ぴったりすわって、にこにこ[#「にこにこ」に傍点]しながら喬之助を振り返ったから、喬之助も、きまりが悪い。
 抜いていた蛇丸《じゃまる》の短刀を鞘《さや》に返して、殺気走っていた顔を持前のやさしさに戻すと同時に――かれは、不思議な気がしてならなかった。
 どうしてこの娘は、見ず知らずの自分のために、そして江戸で評判の追われ者となっている自分に、その科人《とがにん》と知りながら、こうまでつくしてくれるであろう? いまの言葉によれば、自分を思っていてくれる――とのことだが、もしそれが父の十手の鋭鋒《えいほう》を鈍《にぶ》らすための、単なる一時の方便《ほうべん》でなく、ほんとにじぶんに恋を感じているのだとすれば――それはまことに困ったことである。自分には、元はと言えば、そのことから、戸部近江之介と鞘当《さやあ》てになって、こんにちこんなようなことになったほどの、伊豆屋の娘のお園、改名して園絵という、思い思われた妻があるのである。近江の首を取って以来、こうして公儀《こうぎ》の眼を逃れて潜行《せんこう》しているのも、大体はさっき壁辰に話した通り、大迫玄蕃以下十六人の首を狙《ねら》うためではあるが、一つには、あの園絵という女《もの》があるばっかりに、自分はいま、死んでも死ねない気がするのだ。去年の暮れに一|緒《しょ》になって、築土《つくど》八|幡《まん》に家を持ってやれよかったと思う間もなく、ついに自分が我慢《がまん》し切れずに、あんな出来事が起ったのである。あれからこうして所在《ありか》をくらましているあいだも、寝る間も忘れたことのない園絵のおもかげ――それほどの園絵というものが自分にあるのに、それを知らずに、この娘が自分を恋しているとすれば――そして、そのために自分が、壁辰の十手と、近処《きんじょ》の注意から救われて、あやういところを助けられたとすれば――とりも直さず、この娘はじぶんの恩人である。が、園絵という妻があってみれば、恩人とは言え、その恋を受けるわけにはいかないのである。これは飛んだことになってしまった。一難去ってまた一難――喬之助は、そんな気がした。
「まことにかたじけのうござる。御恩は生々世々《しょうしょうよよ》忘れ申さぬ」
 こう固っ苦しい礼を、気が抜けたようになって台所の板の間にすわっているお妙に述べたのち、喬之助は、手早く衣服の乱《みだ》れを直して、壁辰につづいて茶の間へ帰った。
 向き合ってすわってみると、男同士である。もう何も言うことはなかった。ふたりは、軽く声を合わせて、あははと笑っていた。

      五

 はじめて知る恋ごころ――それは、風邪《かぜ》ひきのようなものだ。ゾッと寒気《さむけ》がして、ハアクシャン! くしゃみが出た時は、もう風邪をひいているのと同じことで、お妙が、ああこの男は、何という立派な方であろう! と、一眼見て思ったとき、その時すでに、かの女の心臓にはキュウピットの矢が刺さっていた。と、現代《いま》なら言うところであろう。享保《きょうほ》の昔のことだから、キュウピットの矢なんていうモダンな飛び道具はなかったかも知れないが、いくらキュウピットの矢は無くても、恋をするのに別段不便は感じないのだ。その証拠には、このお妙がそれで――とにかく、これは戯《ふざ》けて済む問題ではなく、お妙は、この時はもう、立派に喬之助を恋していたのだった。
 もっとも、はじめから、そんなはっきりした心もちで、そのため、窮地《きゅうち》にいる恋人を救おうなどという気もちから、ああして父親と喬之助の間へ身を投げ出して、自分でも愕《おどろ》くような口をきいたわけではなく、あれはただ、父壁辰から受け継《つ》いでいる江戸ッ児、江戸ッ児の中でも下谷ッ児の気性《きしょう》が、あの瞬間ムラッと胸にこみ上げて来て、言わば無意識のうちに、気がついた時は、かの女はもうああした思い切った行動をとっていたのだった。何を言ったか、自分ではよく覚えていない。その中でただ一つ、いまだに自分の耳でがんがん[#「がんがん」に傍点]鳴りつづけている自分の声がある――この人は、あたしのいい人でございますよ!
 ああ、なぜ、あんなはした[#「はした」に傍点]ないことを言ってしまったのであろう。
 真剣《しんけん》の時は、思わずほんとの心が出るものだ――とすれば――こう考えて来た時、お妙は、自分が喬之助に熱恋《ねつれん》を捧《ささ》げているのであることを知って、一時に、耐《た》え切れない恥かしさが燃え上って来て、顔が、火のようになっているのに気がついた。
 あんなことを口走って、あの方は、何て下素《げす》な女であろうと、さぞ蔑《さげす》んでいられることであろう。こうも思った。
 お妙は、喬之助の礼には答えなかった。答えることが出来なかった。わけのわからない泣き声が出そうになるのを押し返すのに、彼女は一生懸命だったのだ。喬之助の顔を見ることも出来なかった。
 長いこと、白痴《ばか》のようにぼんやりと、つめたい板の間にすわったきりだった。
 騒ぎにとり紛《まぎ》れて、三人とも、筆屋幸吉が先刻《さっき》まで裏口に立ち聞きしていたことにも、身をひるがえしておもて通りへ駈け出て行ったことにも、気がつかなかった。
 茶の間では、父の壁辰と喬之助とが、ぽつり、ぽつりと話し合っていた。当りさわりのない話題だった。元日の事件のことや、喬之助の身の振り方などには、まだどっちも触《ふ》れていなかった。ただ、こう言っている父親の声が、お妙に聞えた。
「ここにいなさる分にゃア、わたし共はちっともかまいませんが、何しろ人の出入りの多い家だから、かえってお為にならねえかも知れねえと、それを心配いたしますよ」
 厭《いや》なお父《とっ》つぁん! なぜあんなことを言うんだろうと、お妙は恨《うら》めしかった。
「お妙」父親が呼んでいた。「飯にしよう。一本つけるんだ。魚安《うおやす》へ走ってナ、何か見つくろいをそう言って来な」
 お妙が、ちょっと顔を直して、いそいそと魚安へ走った時、さアッと雲の流れが早く、いまにも泣き出しそうな模様になっていたのだった。

      六

 こみ入った話は、いずれ食後にでもというのであろう。お酒と御飯のあいだ、壁辰と喬之助は、世間《せけん》話のほか何もしなかった。お妙にとっては、消え入りたいように恥かしい、お酌と給仕であった。喬之助は、その白い端正《たんせい》な顔に何らの表情もうかべずに、べつに遠慮をするでもなく、膳《ぜん》に向っていた。ただ杯《さかずき》の数は、すすめられても余り重ねなかった。しまいには、壁辰は手酌で呑んでいた。やがて、食事が終った。もういつの間にか、そとは恐ろしい暴風雨《あらし》の夜になっていた。
「よく降ります」
「左様。風も、だいぶひどいようで」
 茶の間《ま》のほうで、こんなことを言い合っているのが、台所《だいどころ》にすわって、ひとり冷たくなった御飯を食べていたお妙に聞えて来た。自分はこんなに、御飯も咽喉《のど》へ通らないような、わくわくした気もちでいるのに、なぜあの人は、ああ落ちついていなさるだろう――お侍というものは、みんなあんなにつん[#「つん」に傍点]としてそっけ[#「そっけ」に傍点]ないものなのかしら! そう思って、お妙はちょっと淋《さび》しい気がした。
 と、その時だった。裏口に、ちらりと灯《あかり》がさしたような気がした。油障子《あぶらしょうじ》に、提灯《ちょうちん》の灯《ひ》が動いて見えた――と思ったのである。おや! お弟子の誰かでも帰って来たのかしら? と、立ち上ろうとすると、家を吹き飛ばしそうな、恐ろしい雨風《あめかぜ》の音だ。
 その雨にまじって、人声がする。おもての方らしい。低声《こごえ》である。
「御めん下さい。ごめん下さい」と、二三声《ふたみこえ》。つづいて、「壁辰さんは、こちらですかい」
 壁辰が起って行った。がらり格子をあけた。
「壁辰はここだが、今頃、何誰《どなた》ですい」
 何ごころなく、雨の奥をすかし見るように覗《のぞ》いたとき、そこの路地のかげから、一度に雨に濡《ぬ》れた御用提灯の集団《かたまり》が、押し出すように現われて来た。物々しい捕手の一隊だ。四、五十人――もいたろうか。他にもぐるりとこの家をとりまいているらしく、一同落ち着き払った様子で、八丁堀の与力《よりき》で満谷剣之助《みつたにけんのすけ》という、名を聞くとばかに強そうな人が、金山寺屋《きんざんじや》の音松《おとまつ》という眼明《めあか》しと、ほか五、六人の重《おも》立った御用の者をつれて、どやどやとはいりこんで来た。
 先方も落ちついていたが、壁辰は、より以上におちついていた。彼は、ちょっとうしろを振り返って、素早くお妙に合図した。お妙も、その非常に、決してとり乱すようなことはなかった。しずかに茶の間へ行って、喬之助の前にすわった。喬之助は、もう知っていた。瞬間、血走った眼が部屋の中を見廻したが、どうせこの家の周囲《まわり》は十重二十重《とえはたえ》であろうと思うと、かれは、起とうとした膝を鎮《しず》めて、眼のまえのお妙を見た。お妙は、きちんとすわって、喬之助の眼を見つめていた。
「参りました。誰が訴人《そにん》をしたのか、わたし達にもわかりませんでございます。ただ、わたし達があなた様をお止め申しておいて訴え出たのではないことだけは、どうぞおわかりなすって下さいませ」
 喬之助が、うなずいた。しずかな低声《こごえ》だった。
「それは、よッく解っております。お前さま方が訴え出たのだなどとは、拙者は夢にも思いませぬ」
「それを伺《うかが》って、ほんとに安心致しました」お妙は、ニッコリした。「で、どうなさいます?」
 喬之助もほほえんだ。
「さア――来た以上、仕方がない。不本意ながら、お宅《たく》を血だらけに致すよりほか、まず、途《みち》はござるまい。斬合《きりあ》いには、散《ざん》バラ髪《がみ》が一番|邪魔《じゃま》でござる。手拭いを一本――」
「鉢巻《はちま》きでございますか」
 お妙は、自分のしていた緋鹿子《ひがのこ》のしごきを手早く取って、二つに食《く》い割《さ》いた。
「存分にお働きなすって――」
「かたじけない。なアに」と笑って、「不浄《ふじょう》役人の五十や六十――」
 と、喬之助が立ちかけた時、今まで、戸口に立って
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