壁辰の娘お妙――あの、露《つゆ》を持った野百合《のゆり》の花のような、たおやかなお妙のすがたに、人知れず思いを寄せている幸吉である。今までにだって、機《おり》を見ては何度となく意中を伝えてあるのだが、お妙はそのたびに外方《そっぽ》を向いて、いつもつれない様子を見せて来た。しかし、拒《は》ねられれば拒ねられるほど募《つの》ってくるのがこの病だというし、それに幸吉は、若|旦那《だんな》らしく生《なま》ッ白《ちろ》い自分の男ッ振《ぷ》りに多分の自信を持っているのだから、おれの男ッ振りにうちの財産がある以上、お妙は今に靡《なび》いてくるものと思いこんで、先方は幾ら黒門町だの壁辰だのと言ってみたところで、どうせ、左官である。職人である。おやじの幸兵衛を口説《くど》き落して誰か然るべき人を立て、正式に申し込んでいけば、即座《そくざ》に落城《らくじょう》するのはわかり切っている――と思うのだが、おいらも下町ッ児だ。そんな野暮《やぼ》ったらしいことはしたくない。何とかして、お妙を自分の手一つで物にしようと思うから、お妙が知らん顔をすればするほど、どうも己惚《うぬぼ》れほど恐ろしいものはない。ああ、あれはまだ処女《おぼこ》だから、おれのようないい男に言い寄られて恥かしいのであろう。無理もねえ――なんかと、いい気なもので、いずれは望みがあることと勝手に決めているのだから、お妙が厭《いや》がって厭がって、きらい抜いているのも知らずに、何かにつけ用を拵《こしら》えては、一日に何度でも、さかんに壁辰のところへ出かけて行く。
 そういう気があるから、今日も、おやじの話を聞くと、じぶんから進んで壁辰を呼びに走り出したのだが、なに、幸吉としては、壁辰は勿論、おやじの用なんかどうでもいい。ただ一眼なりとお妙の顔を拝んで、一くちでも口をききたいという一心なんで――息子のそんな意中《こころ》はちっとも知らないから、筆屋幸兵衛は、
「ああ、伜《せがれ》は感心なものだ。若旦那とか何とか大勢の者に立てられていても、わたしの用事となると、奉公人は遊び呆けているのに、ああして自分で駈け出して行く。人を使うものはああでなければならない。有難い、ありがたい。あの幸吉がいるあいだ、この筆屋の屋台骨《やたいぼね》は小ゆるぎもしますまい。ありがたいことだ。幸吉がああいう調子なら、筆屋も筆紙《ふでかみ》類ばかりでなく、質両替油渡世《しちりょうがえあぶらとせい》のほうにも手を出して、かねがね長庵さんを通して脇坂様の殿様にお取り持ちを願ってあるように、やがては、同じ越後《えちご》の柏崎出のあの伊豆屋伍兵衛を蹴落《けおと》して、この筆屋が成り変ってお城の御用を仰せつかることも出来ようというものだ」
 すっかり嬉《うれ》しくなっちまった筆屋幸兵衛、思わず大声に、茶の間《ま》のおかみさんに話しかけた。
「婆《ばあ》さんや、よろこびな――筆屋は万々歳《ばんばんざい》だ。この屋台骨はびくともしねえぞ!」
 いきなり呼びかけられて、何の話だか知らないから、おかみさんは新しい建前のことだとばかり思って、
「当り前じゃアありませんか。きょう棟上《むねあ》げをした許《ばか》りですもの。そんなにすぐ屋台骨がぐら[#「ぐら」に傍点]ついて耐るもんですか」
 感ちがいしている。何を言やアがる、婆さんこの頃すこし耄碌《もうろく》して来たぞ、と、筆屋幸兵衛は呟《つぶや》いた。

      三

「それでは殿様、わたくしはこれで失礼を――」
「おう、長庵、帰るか。では、な、琴二郎をあやつって聞き出すこと、よっくその方に頼んだぞ」
「はい。この長庵めがお引きうけ申しました以上、口幅ったいようでございますが、ズンと御安心なすって下さいまし」
「うむ。いつもながら頼もしいぞ」
「恐れ入ります。ごめん下さいまし」
 脇坂山城守に挨拶を済ました村井長庵が、腰《こし》を上げて帰ろうとしていると、いつの間にか空の一|角《かく》が曇って、雨を宿すらしい真っ黒な雲が、お庭の樹立《こだ》ちの上に古綿のように覆いかぶさっているから、お縁《えん》へ出てそれを見上げていた長庵が、室内の山城守を振り返って、
「殿様、恐ろしい降りになりそうでございます」
「そうさのう」山城守は、何かもう他のことでも考えているのか、うるさいと言わんばかりに、気のなさそうな声だ。「雨か。なるほど、雨になるらしい模様だな」
「稼業用《しょうばいよう》の一張羅《いっちょうら》を濡らしましてはかないません。やって参りませんうちに、いそぎますでございます」
「うむ。それがよい。早う行け」と、山城守は、つぎの間に控《ひか》えている小姓《こしょう》に声をかけて、「これこれ、長庵が帰るぞ。誰ぞある。たれか長庵を送ってとらせい」
「いえ、もう、それでは、却って恐れ入りますでございます。失礼ながらおやしきの勝手を心得ております長庵、ひとりで引きとらせていただきますでございます」
 言っているうちにも、サッと濡れた風が吹き込んで来て、お部屋の戸障子《としょうじ》がガタガタと鳴る。木の枝の騒ぐ音が何やら物すごく聞えてくる。見るみる世の中が真っ暗になって行くような心もちで、その闇《くら》い中で、脇坂山城守の机の上にひらいてある書物が、風に煽《あお》られてヒラヒラ白く動いて見える。
 山城守は、すわったまま身を屈ませて、軒の端ごしに空を仰いだ。
「これは、暴風雨《あらし》になりそうだぞ。恐ろしいあらしに――」
 言葉の終らないうちに、ゴウッ!――家棟《やむね》が震動《しんどう》して、パラリ、屋根のどこかに音がしたかと思うと、冬の雨は脚《あし》が早い。早やつづけさまに軒を叩《たた》いて――本|降《ぶ》りだ。
「こりゃいかぬ!」
 山城守は、起《た》ち上った。あけ放してある縁から雨滴《うてき》が躍《おど》りこんで来て、畳を濡らし、長|駆《く》して山城守の膝を襲《おそ》いそうにするので、かれはあわて出したのだ。立って行って、自分で障子をしめようとした。そして、その廊下に、まだ村井長庵がまごまごしているのを見て、
「長庵、今は帰れぬ。一まず、こっちへはいれ。はいって、雨止《あまや》みを待つがよい」
「へいへい」
 長庵と、長庵を送りに立った小姓とが、山城守の言葉に甘えてお部屋へ逃げ込もうとしていると、雨は一そう激しくなって、地面を打ち、樹々《きぎ》を叩いて、障子にも、ポツリ、ポツリ、大粒な水のあとが滲《にじ》み出している。
 遠い縁のはずれで、にわかに雨戸《あまど》を繰り出す大勢の声が、立ち騒いで聞えていた。
 と、この時、雨の吹きこむ縁側を用人の一人がいそいで来て、障子をあけるなり、
「殿様」
「何じゃ」
「下谷長者町筆屋の伜《せがれ》幸吉と申す者が、急なお眼通りを願って参上いたしました」
「なに、筆屋のせがれ幸吉が参った?」
 山城守と長庵は、ちら[#「ちら」に傍点]と眼を合わせた。長庵が出《で》しゃ張って、口をきいた。
「おや、幸吉さんが――ハテ、何か急用でも出来いたしたのでござりましょうか」
「まあ、会おう。これへ」
 山城守が用人に命じた。
 間もなく、下谷からこのやきもち[#「やきもち」に傍点]坂《ざか》までひた[#「ひた」に傍点]走りに駈《か》けて来る途中、屋敷の近くへ来てからこの雨にやられたとみえて、全身|濡《ぬ》れ鼠になって惨《みじ》めな幸吉のすがたが、おずおずしながら通されて来た。
 が、おずおずして見えたのは、濡れた着物と、大所の武家やしきに慣《な》れない幸吉の態度だけで、幸吉の心もちは、ちっともおずおずしてはいなかった。おずおずするだけの余裕《よゆう》さえかれのこころにはなかった。何故なら、幸吉は、その部屋へ通されて、そこに山城守と一緒に思いがけなく村井長庵がいるのを見るや、長庵とはおやじの幸兵衛が交際《つきあ》っていて幸吉も識《し》っているので、山城守に挨拶することも忘れて、いきなり、長庵に獅噛《しが》みつくようにして言ったのだった。
「おお、長庵さん、お察し下さい。わたしゃ口惜《くや》しいのだ――あんな、あんな、お尋ね者に、お妙が心を寄せるなんて――」
「シッ、コレ、幸吉どん、ここをどこだと思う? 殿様の前ですぞ。そんなに取り乱して、一たい全体なにがどうしたと言うんです」
「あッ!」と幸吉は、はじめて山城守が眼に入ったように、「殿様! 御注進《ごちゅうしん》! 居ます! います! あの野郎が居ます! わたしは裏口の隙間から覗《のぞ》いて見ましたんで声も聞きました――話も聞きました――アア、アア、草臥《くたび》れた」
「ナ、何がいるというのですい。これ幸吉どん、しっかりしなさい。いったい何者がどこにいるというのだ――」
 崩《くず》れようとする幸吉を、長庵が抱《だ》くようにして訊《き》いた。何事か?――と出て来た数人の家来《けらい》達に取りまかれて、関取《せきとり》のように大きな山城守が、スックと立って幸吉を見下ろしていた。
 すると、何者が、どこにいるのだ?――と叱るように長庵に訊かれて、糸のような細い声で幸吉がいったのだ。
「か、神尾――」
「な、何イ?」
 山城守の顔がさっと変った。一同も打たれたように反《の》けぞって、ざわざわと幸吉のほうへ詰《つ》めよった。幸吉が言っていた。
「神尾――喬之助、というおさむらい――」
「うむ。その神尾喬之助は何処《いずく》におると申すのか。速《すみや》かに言えッ!」
 山城守が叱咤《しった》した時、幸吉は、だんだんぐったりとなりながら、
「あっち――」
 と右手を横に伸《の》ばしたかと思うと、だらしのないやつで、あんまり駈けつづけて来たので、そのままそこに気を失ってしまった。
「なに、直ぐ呼び返します。ちょいとわたくしが手当てを致しますれば――」
 折角、あの神尾喬之助の居場所を知らせに来た者が、その肝腎《かんじん》の場所を言わないうちに呼吸《いき》が絶《た》えてしまってはしようがない。気が気でないので、一同があわてふためく中で、医道《いどう》の用はこの時にありとばかり、長庵は大得意《だいとくい》だ。意識不明の幸吉を仰向《あおむ》けに寝かして、
「ちょいと、失礼を」
 なんかと言いながら、いやに落ちついて十徳を脱《ぬ》ぎはじめた。いくらまやかし[#「まやかし」に傍点]医者でも、幸吉の気絶ぐらいは直せるだろう。
 山城守をはじめ一同は息を凝《こ》らして、長庵の手腕《うで》によって幸吉が意識を恢復《かいふく》し、ふたたび口をひらくのを待っている――。
 そとは大暴風雨《おおあらし》になっていた。

      四

 そとは大暴風雨になっていた。
 で、黒門町の壁辰の家でも、早くから雨戸をしめ切っていた。乾児《こぶん》たちは、筆屋のふるまい酒に酔い痴《し》れたあげく、例によって吉原へでも繰りこんだのであろう。まだ一人も帰って来ていなかった。茶の間の長火鉢をへだてて、壁辰と喬之助がすわっていた。お妙は、父親の壁辰のうしろに隠《かく》れるようにして、もじもじとうつむいていた。
 いま、三人で夕餉《ゆうげ》を済ましたところである。喬之助と壁辰が、ぽうっと眼のふちを赤くしているのは、食前に、お妙の酌《しゃく》で、さしつ差《さ》されつしたものであろう。もうそんなにも、他意《たい》なく打ち解けていた三人であった。
 壁辰が、喬之助めがけて振り上げた十手を、さらりと打ち捨てたからである。
 あの、血を吐《は》くようなお妙のたんか[#「たんか」に傍点]――「お父《とっ》つぁん、十|手《て》、十手、十手というものは、血も涙もないんでございましょうかねえ――しっかりして下さいよ。この人は、あたしの好《い》い人じゃアありませんか」という、あれが、恋は弱い者を強くし、強い者を弱くする、弱い娘の口からこの強い言葉が吐き出されたばかりに、それには、強い壁辰のこころを弱くするだけの、まさに千|鈞《きん》の重みがあったのだ。錐《きり》のように、父壁辰の胸をもみ抜いたのだった。壁辰とても、御用十手を預っている自分が、喬之助を召し捕ろうとしたことが、
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