老爺《ろうや》を相手取って、ドタバタみっともねえ真似をなさるお気ですかね」
すると、茶の間《ま》にいるとばかり思っていた喬之助の声が、案外、戸のすぐ向う側でしたので、壁辰は、ぎよッ! として戸を押さえた。
「壁辰殿」と、お里が知れた以上、喬之助も本来の侍に帰って、「甚だ不本意だが、拙者は、まだ捕まるわけには参らぬ用がござる。よって、この儘《まま》穏便《おんびん》に引き取り申す。拙者が立ち去ってから百の数をかぞえたのち、この戸をあけてお出になるがよい。あははははは」
戯《ふざ》けた言分!――と、壁辰はすこしむっとなった。
「何を? まだ用がある? 悠長《ゆうちょう》なことを言ってますぜ。どんな用ですい」
「そうだ。用があるのだ。拙者《せっしゃ》は、まだこの裟婆《しゃば》に用があるのだ」喬之助は、夢みるような声で、
「その用というのは――あの、戸部近江之介と共に拙者を嬲《なぶ》り、ついに拙者をして今日の破目におとし入れた西丸御書院番の番士一統」
「えッ!」
「第一に、大迫玄蕃《おおせこげんば》」
「え?」
「荒木陽一郎」
「ふうむ――」
杉戸をさかいに、奇妙な会話《やりとり》が続いている。
五
「池上新六郎」
「ほン」
「浅香慶之助」
「ほ」
「猪股小膳」
「へえい!」
「箭作《やづくり》彦十郎」
「なアる――ほど」
「長岡|頼母《たのも》」
「へ?」
「日向《ひなた》一|学《がく》」
「――――」
「妙見《みょうけん》勝三郎」
「――――」
「保利《ほり》庄左衛門」
「みんなその方々を、一てえどうしようと仰言《おっしゃ》るんで?」
「黙って聞けッ!――保利庄左衛門――は挙げたな。こうっと、それから、博多弓之丞《はかたゆみのじょう》、峰淵車《みねぶちくるま》之助、笠間甚八、松原源兵衛――」
「な、何を、寄《より》合いじゃアあるめえし、人の名前をならべているんだ」
「飯能主馬《いいのうしゅめ》に横地半九郎――それに、山路《やまじ》重之進! この十七人だッ!」
憎悪《ぞうお》と復讐《ふくしゅう》に燃える声だ。これが、歯を噛《か》むように、喬之助の紅《あか》い口びるを叫び出た。戸のむこうの台所では、その物|凄《すご》い気魄《きはく》に打たれて、壁辰は思わずゾッ! とした。
「その十七人の御書院番衆――それをどうしようてえのでござります? いま捕まるわけにはいかねえその用てえのは、な、何ですね」
「うむ! きゃつら十七人が肚《はら》を合わせ、一人の拙者を嬲《なぶ》りになぶり、拙者もついに勘忍《かんにん》ぶくろの緒《お》を切って、事こんにちに到ったのだッ!」
「へえ。そういう噂《うわさ》は伺いやしたが、それで――?」
「恨《うら》みは、戸部近江一人ではないッ!」
「と、申しますと?」
「残った十七人だ」
「そこで?」
「拙者はこれから一生、いや、一生で足らずば二生も三生もかかって、この十七人を順々に打ち取り、十七個の生首《なまくび》をずらり[#「ずらり」に傍点]並べて――壁辰どの、その上で、改めて貴殿の手にかかり、神妙にお繩を頂戴いたすッ!」
「えッ! その十七人の御書院番衆を、これから、片っ端《ぱし》から首を落して廻るんですって?」
「そうだ。最初に首の落ちるのは、大迫玄蕃である」
「それはもう決まっているんで――?」
「勿論先方は知らん。が、拙者はそう決めておるのだ」
「うわアッ! 助からねえなア!」
「これこれ、壁辰殿。そういうわけであってみれば、折角《せっかく》だが、きょう貴殿に押えられて、突き出されるという仕儀《しぎ》には参らぬ」
「じょ、冗談《じょうだん》じゃアねえ。そっちにシギがなくてもこっちにそのシギとやらが大ありなんだ――お前さんの言うように、そうお歴々の首がころころ落ちて堪るもんか」
「堪るも堪らぬもないッ! 拙者は、一つずつ落してゆくのだッ!」
「吐《ぬ》かしゃアがれッ! 言わして置けば、勝手な音をほざきやがる。おめえさんはどんなに腕《うで》が立つか知らねえが、先様だって、藁《わら》人形や据《す》え物じゃアあるめえし、そう口で言うように、立派なお侍さんの首がスパスパ転《ころ》がってお堪《たま》り小法師《こぼし》があるもんか」
「ふうむ。よし! もし転《ころ》がったらどうする」
「どうもこうもねえ。その前《めえ》にてめえを引っ縛《くく》るのだ」
「これ、壁辰殿、拙者は、かほどまでに事理《こと》を別けて頼んでおるではないか――こういう用がある以上、いま直ぐ貴殿の繩にかかるという訳には参らぬが、その代り、何年、いや、何十年かの後、この十七人の十七人目、最後の一人を首にしたその日に、拙者のほうから必ず再びこの家へ参って、その時こそは逃げも隠れもせず、この両の手をうしろへ廻して、笑って貴殿の繩を受け申そう。武士のことばだッ! 二言はないッ! 誓《ちか》うぞ壁辰どの、どうだッ? 今日のところは眼をつぶって、この拙者に無用の血を見せずに、このまま戸外《そと》へ放《はな》してくれるかッ?」
真剣《しんけん》だ。復讐魔《ふくしゅうま》と化しさっている喬之助の一語一語が、剃刀《かみそり》のように冷たさをもって、戸を貫いて壁辰の胸を刺《さ》す。
が、壁辰は笑い出していた。
「げッ! お前《めえ》さまの身体《からだ》にゃア八百八町の御用の眼が光っているんだ」
「存じておる。ほかの者なら頼まぬ。黒門町の壁辰と見込んですべてを打ちあけて頼んでおるのじゃ」
「煽《おだて》は利《き》かねえや。なあ神尾さま、おめえさんは、このあっしを岡っ引きと知って来なすったかね?」
「――――」
「内実《ないじつ》は、ただの左官職と思って、しばらく下塗《したぬ》り奴《やっこ》にでも化けこんで、御公儀《ごこうぎ》の眼をくらます気でか」
「それは、言うなら、そのつもりで来たのだ」
「と、飛んでもねえ。虫が好過《よす》ぎらあ――神尾さん、あんたのおかげで、罪もねえ奥様や、また弟御《おとうとご》や伊豆伍夫婦まで召し捕られて強《き》つい御|詮議《せんぎ》の憂目《うきめ》を見ていなさるのを、あんたは、まさか御存じねえわけではありますめえ――悪いことは言わねえ。何にも言わずに、このおやじの顔を立てて下せえ。そりゃアお手当てになりゃア、切腹か打ち首か、あんたのお命《いのち》は無えものだが、あっしも、黒門町と言われる男だ。しが[#「しが」に傍点]ねえ渡世《とせい》こそしているが、あんたのお繩を最後に、立派に十手を返上して――頭を丸めやす。へえ、坊主になって、一生あなた様の後生《ごしょう》をおとむらい申しやす。どうか、どうか――神尾さま、観念して、このおやじに縛らせて下せえまし――」
うウむ!――と、鉄より強い情《じょう》の金《かな》しばりだ。神尾喬之助の唸《うな》り声を耳にすると、台所の片|隅《すみ》にうずくまって、さっきからこの問答を聞いていたお妙が、このとき、わッ! と哭《な》き伏《ふ》したのだった。
六
「やかましいぞ。お妙《たえ》! 汝《われ》ア何も、泣くこたアねえじゃねえか」
と、はじめて娘の存在に気がついて、そっちを振り向いた壁辰は、こうお妙を叱《しか》りつけながら、そのくせ自分も、はや鼻を詰《つ》まらせていた。が、ふたたび戸の向うへ、
「どうですい神尾さま、お聞きになって下せえますか」
「――――」
喬之助は答えない。考えてでもいるのか――いや、これも、こみ[#「こみ」に傍点]上げて来る涙を、飲み込もうと努力しているらしいのである。
戸の両側に、湿《しめ》やかな沈黙《ちんもく》がつづいた。
やがて、喬之助の低声《こごえ》が聞えた。
「厭《いや》だ。厭でござる」
壁辰は、がらり、調子が変った。
「不承知――と言うんだな」
「種々御忠言は深謝《しんしゃ》仕《つかまつ》るが、拙者には、いま申したような用がござる。妻や弟の難儀《なんぎ》なぞ、致し方ないと諦めるばかりだ」
「そうか。これだけ言ってもわからねえのか。よし! なら、仕方がねえ! たとい、あっし一人がここで眼をつぶって、お前《めえ》を出してやったところで、そのシャッ面《つら》を眼当てに、いま江戸中の岡っ引きが、眼を皿のようにして歩き廻っているんだ。ここを一歩出るが早《はえ》えか、いずれは他《ほか》の者に感づかれて、御用の声を聞くにきまってる――それに、私《わたくし》の情はとにかく、おめえはお尋ね者、あっしは目明し、それを落してやったとあっちゃあ、お上に対《てえ》して、あっしの一|分《ぶん》が立たねえのだ。おまけに、これから十七人の命を取ろうとしているお前だ。聞いた以上は尚さら、おれが知らぬ顔をしようとしても、この十手が承服《しょうふく》しねえのだッ!――神尾喬之助! 御用だッ!」
言い終るや、ぱッ! と杉戸を蹴倒《けたお》した。と見る。そこに、喬之助が立っている。顔いろ一つ変えずに、鼻と鼻がぶつからんばかりに、ぬッくと立ちはだかっているのだ。
「御用!」
振りかざした自慢の十手、ひゅうっ! と風を切って喬之助の肩へ――落ちんとして、横に滑《すべ》った。喬之助が体《たい》をかわしたのだ。
「待てッ! では、飽くまで捕ろうというのかッ」
「もう問答は無用だ。この十手は、壁辰という左官屋の手にあるんじゃアねえ。お上の御法《ごほう》だ。神妙にしろッ!」
再び、朱総《しゅぶさ》をしごきざま、宙《ちゅう》鳴りして来る江府《こうふ》一|番《ばん》壁辰の十手だ。喬之助は、この場合、血を好まなかった。が、こうなってはもう止むを得ない。裸身《はだか》のまま袂《たもと》に潜《ひそ》ませていた河内太郎蛇丸《かわちたろうじゃまる》の短剣だ。そいつが、光線のように斜《ななめ》に走った。蛇丸《じゃまる》――という名のとおりに、生き物のごとく自ら発して、遮《しゃ》二|無《む》二に襲いかかってくる壁辰の脇腹《わきばら》を、下から、柄《つか》まで肉に喰い込んで突き――上げたと見えた秒間、その紙一枚のような瞬刻《しゅんこく》だった。
ほらほらと椿《つばき》の花が咲いたように、剣と十手の二人のあいだへ、お妙が、身を投げ出して割り込んで来たのだった。
「ま、待って下さいッ! お父《とっ》つぁん、待って! 待って!」
「ええッ! そこ退《の》けッ! 娘ッ子の出る幕じゃアねえ! ケ、怪我《けが》しねえうちにすっ込んでろ!」
「いいえ、引っこんではいられません!」と、平常《ふだん》のお妙とはまるで別人、彼女はその場に坐り込んで、あっという間に父壁辰の脚《あし》に纏《まつわ》り付いた。
「おとっつぁん! 後生ですッ! 助けて上げて下さいッ!」
「な、何だと! これ、退《ど》け、退《ど》け! ええッ、退《ど》かねえかッ」
「いいえ退きません! 死んでも退きません!」
「何を言やアがる! これお妙、汝《われ》ア気でも違ったか」
「気が違っても何でも、この人はわたしの、好い人ですもの。わたしは、さっき一眼見た時から――」
七
裏口に、人影が動いた。それは、何気なく訪れて来たものだったが、何やら内部《なか》に、物さわがしい人の動きがあるので、かれは、先刻《さっき》からそこに、そうやって水口に耳を押し当てて、一伍一什《いちぶしじゅう》を立ち聴《ぎ》きしていたのだった。
いまその、神尾喬之助に恋ごころを寄せている――というお妙の言葉を聞くと、壁辰も無言、喬之助も無言――不意に落ちたひっそり[#「ひっそり」に傍点]した空気のなかで、裏の人影は一そう戸に貼《は》りついて、聞耳を立てた。
この殺気《さっき》の場面に、恋の一こと――それは、降り積む雪に熱湯を注いだも同然で、一瞬、ほのぼのとした煙を上げて、この場の緊張《きんちょう》をやわらげ、冷気に一抹のあたたかみを与える効果はあったが、お捕物の最中に、娘の口から、その当のおたずね者への恋の告白《こくはく》を聞こうとは!――壁辰は、悪夢をふるい落とそうとでもするかのように、ブルルと身ぶるいをして、それでも、声は、父一人《おやひとり》娘《
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