気で飛び込んで来たり、または遠国から仲間の添え状を持って思いがけない弟子入りが来たりするので、母の死んだあと、父のために一切の切り盛りをしている娘のお妙は、どんな人が留守にきても、一応上げて待たしておくようにと、ふだんから父の壁辰に命令《いいつ》けられているのである。それに、壁辰は御用も勤めている。十手を預かっていて、そのほうでは今江戸に鳴らしている大親分なのである。どんな事件で、何時《いつ》どんな人がやって来ないとも限らないから、壁辰が家を明けても、客はすべて、お妙が引き受けて上げて待たしておくことになっているのだ。だから今も、この美男の職人が土間に立って案内を乞《こ》うたとき、お妙は、いつものように前掛けで手を拭《ふ》きふき出て行ったのだが、その男のあまりな綺麗さには、お妙は、もうすこしで驚きの声をあげるところだった。何しに役者が来たのだろうと直《す》ぐ思った。いや、役者衆にも、あんなのはちょっとあるまい――お妙はいま台所に立って、ぽうっとしてそんなことを考えている。
 元日早々から、いまだに江戸全体は引っくり返るような騒動《そうどう》をしていた。何しろ、殿中の刃傷《にんじょう》である。それも、斬《き》ったの張ったのという生易《なまやさ》しいのではなくて、お目出度い元日に、組頭の首が一つ脱《と》れて飛んだのだから、大変なさわぎになったのは当然である。殿中では、何の意味もないにしろ、鯉口《こいぐち》を三寸|寛《くつろ》げれば、直ちに当人は切腹、家は改易《かいえき》ということに、いわゆる御百個条によって決まっているのである。すこしでも刀を抜いているところを見付けられでもしようものなら、弁解《べんかい》も何も取り上げられずに、そのまま平河口《ひらかわぐち》から網乗物《あみのりもの》に抛《ほう》り込まれて屋敷へ追い返されることになっているのだ。そこへ、刃傷も刃傷、一役人の首が文字どおり飛んだのである。しかも、下手人《げしゅにん》らしく思われる者は、その場から逐電《ちくでん》して影も形も見せない。番頭脇坂山城守は、不取締りの故をもって一件|落着《らくちゃく》まで閉門謹慎《へいもんきんしん》を仰せつかっている。番士一同もそれぞれ理由に就いて詮議《せんぎ》を受ける。まず第一番に神尾喬之助を捕《つか》まえて事を質《ただ》し、柳営《りゅうえい》である元旦である、喬之助に理があれば切腹、非ならば極刑《きょくけい》に処さなければならない。築土《つくど》八幡の家からは喬之助妻園絵をはじめ、弟の琴二郎まで召捕《めしと》られて審《しら》べを受けている。園絵の実家神田三河町の伊豆伍はもとより、その他喬之助が立ち廻るかも知れないと思われるところへは、大岡越前守の手で洩《も》れなく手配が届いている。人相書は全市の与力《よりき》と岡《おか》っ引《ぴ》きにいきわたり、別動隊として、近江之介を殺された上自分は閉門をうけて、切歯扼腕《せっしやくわん》に耐えない脇坂山城守の手から、種々雑多の小者に変装した家臣や出入りの者が江戸中に散らばってひそかに喬之助のあとを嗅《か》ぎ廻っている。
 七日は過ぎたが、危険の最中である。今までどこに潜《ひそ》んでいたのか、縞《しま》の着物に股引《ももひ》き腹掛《はらが》け、頭髪《あたま》も変えて、ちょいと前のめりに麻裏《あさうら》を突っかけて、歩こうかという、すっかり職人姿の舞台《いた》に付いているこの喬之助である。
 黒門町の家で壁辰を待って、すぱり、すぱりと煙草の輪《わ》を吹き上げている。
 大通りに、木遣《きや》りの声が流れて来た。

   人情杉板挾

      一

 下谷長者町に、筆屋幸兵衛という、筆紙商《ふでかみしょう》の老舗《しにせ》がある。千代田城のお書役《かきやく》御書院番部屋に筆紙墨類を入れている、名代の大店《おおだな》だ。今度隣りに地所を買って建前《たてまえ》を急ぎ、このたび落成《らくせい》したので、壁一切を請負《うけお》った関係上、黒門町の壁辰も、二、三の弟子を連《つ》れて、きょうの棟上《むねあ》げに顔を出している。
 ちょうど七草《ななくさ》の日だ。
 これこそ日本晴れという天気であろう。紺いろの空に、鳶《とび》が一羽、悠《ゆう》々と輪をえがいて、気のせいか、道ゆく人の袂《たもと》をなぶる風にも、初春らしい陽《ひ》のうごきが見られる。女の廻礼は七日過ぎてからとなっている。町家の内儀《ないぎ》や娘らしいのがそれぞれに着飾って、萠黄《もえぎ》の風呂敷包などを首から下げた丁稚《でっち》を供に伴《つ》れて三々伍々町を歩いている。長閑《のどか》な景色だ。
 七草なずな、唐土《とうど》の鳥が――の唄に合わせて、とことん! とことん! と俎板《まないた》を叩く音が、吉例により、立ち並ぶ家々のなかから、節《ふし》面白く陽気《ようき》に聞えて来ていた。
 長者町の筆屋の店頭《みせさき》は、さすが町内第一の豪家《ごうか》の棟上げだけあって、往来も出来ないほど、一ぱいの人集《ひとだか》りだ。紅白《こうはく》の小さな鏡餅を撒《ま》く。小粒を紙にひねったのをまく。慾の皮の突っ張ったのが総出で、それを拾おうというのである。
 二階の足場に、三|宝《ぼう》を抱えて立ち上った出入りの棟梁《とうりょう》が、わし掴みに、下を眼がけてバラバラッ! とやるごとに、群集は、押す、蹴《け》る、潜《くぐ》る――果ては、女子供が踏まれて泣き叫ぶ。他町の者の顔が見えるといって喧嘩がはじまる。いやどうも、大変な騒《さわ》ぎだ。
 檐《のき》には、四寸の角材《かくざい》に、上下に三本ずつ墨黒ぐろと太い線を引いた棒が、うやうやしく立てかけてある。棟上げの縁起《えんぎ》物だ。まん中に白紙を巻いてしめ[#「しめ」に傍点]繩を張り、祝儀《しゅうぎ》の水引きが結んである。そのほか、この角材には、色んなものがぶら下っているのだ。まず、鏡、櫛《くし》、笄《こうがい》、かもじなど。それに、黒、緑、赤、黄と、四色の木綿片《もめんぎれ》が、初荷の馬の飾りのように、物ものしく垂れさがっている。現代《いま》でも、田舎などではどうかすると見かけることがあるが、悠長《ゆうちょう》な江戸時代には、こんなことをばかにやかましく言って、厳重に守ったものだ。
 裏手はまた職人たちで押すな押すなだ。土間《どま》にずらり[#「ずらり」に傍点]と祝い酒の鏡を抜いて、柄杓《ひしゃく》が添えてある。煮締めの大皿、強飯《こわめし》のお櫃《はち》が並んでる。下戸《げこ》には餅だ。飲むは食うは大さわぎで、やがて銘々土産の折りをぶら下げて口々に大旦那の幸兵衛に挨拶しながら帰って行く。
 広い台所に立って、一々応対をしている六十余りの禿茶瓶《はげちゃびん》が、その筆屋幸兵衛だ。首の廻りに茶色の絹を巻いて、今日だけは奥と台所をいったり来たり、一人で采配《さいはい》を揮《ふる》ってる。息子の幸吉は、三十近い、色の生《なま》っ白《ちろ》い優男《やさおとこ》である。父親《おやじ》の命令《いいつけ》を取り次いで、大勢の下女下男に雑用の下知を下しながら仔猫のように跳《と》び廻っていた。
「どうも若旦那のお酌は恐れ入りやす。いえもう、遠慮なく頂きやした――おや、これはこれは大旦那様、こん日はおめでとうございます。何ともはや、お盛んなことで――いえね、大した評判《ひょうばん》でございますぜ。今度の筆屋さんの御普請《ごふしん》と来た日にゃアほんとに、追従《ついしょう》じゃアございません、へい、三井さんや鴻《こう》ノ池さんでも、こう申しちゃア何ですが、あんな豪勢な真似《まね》は出来めえ、なアんてね、へっへ、江戸中の職人衆のとり沙汰《ざた》でございますよ。へい」
 なんかと言うのを、幸兵衛父子は、軽く左右に受け流しながら、それでも、流石《さすが》に嬉しそうににこにこ[#「にこにこ」に傍点]している。
 人混みを潜《くぐ》って、壁辰も幸兵衛に挨拶したのち、酒や餅にそれぞれ喰らいついて離れようともしない弟子達はそのまま残して置いて、ひとり筆屋の店を出た。
 振舞い酒に好い気持になった連中が、向うから来る廻礼の[#「廻礼の」は底本では「廻体の」]女なんかをひやか[#「ひやか」に傍点]しながら、木遣《きや》りの声を張り揚げて流してゆく。
 明るい日光が街にみなぎって、門松の影がゆらゆら[#「ゆらゆら」に傍点]と燃えているように見える。
 きちがい陽気――。
 どこからか外れ飛んで来た羽子《はね》が、ヒョイと壁辰の襟首《えりくび》に落ちた。女の児が追っかけて来て噪《さわ》ぎ立てる。壁辰は、にっこり掴み取って、投げ返した。
 紺の腹掛け※[#「ころもへん+昆」、345−上−1]襦《ぱっち》に粋《いき》な滝縞《たきじま》を重ね――苦《にが》み走って、いい親方ぶりだ。
 黒門町。自宅の前。格子を開けようとして覗《のぞ》くと、見|慣《な》れない麻裏《あさうら》が一足、かれの帰りを待ち顔に並んでいる。

      二

 じろり――茶の間に待っている客を横眼に白眼《にら》んで、奥へ通ろうとした。が、その時、ふと壁辰の胸底《むね》を走り過ぎたものがあって、彼は、どきり[#「どきり」に傍点]とした。思わず、足が停まった。客は室内、壁辰は茶の間のそとの細《ほそ》廊下――だが、顔が合った。無言である。面と向って、立った。
 職人風の若い男――神尾喬之助を、壁辰は、どこかで見たような気がしたのだ。見たような顔! 見たような顔!――咄嗟《とっさ》に、眼まぐるしい思案が、壁辰の頭脳《あたま》を駈《か》けめぐった。と! 思い出した! ぴイン! と来たものがある。そうだ! この元日に西丸御書院番組与頭、戸部近江之介を叩ッ斬《き》って、その生首を御番部屋へ投げ込んで逐電して以来、今まで土中に潜《もぐ》ってでもいたか、頓《とん》と姿をくらましていた――神尾喬之助! ううむ、この日頃、きつい御|詮議《せんぎ》で、詳しい人相書が廻って来ているのだ。
 あの人相書とこの若造《わかぞう》!
 服装《なり》かたちこそ変っているが、おれの眼力《がんりき》にはずれはねえ。それに、それほどの美男が、いくら江戸は広くても、そうざらにあるはずはない。そうだ! この奴《やっこ》こそ、いま江戸中の御用の者を煙に巻いている神尾喬之助というお尋ね者に相違はねえのだ――! と、気が付いた途端《とたん》、一時ははっ! とした壁辰も、ふところ手のまま身構えていた身体をゆるめて、ちょいと、口尻《くちじり》に薄笑いを浮べた。
 野郎! 百年目だッ! この壁辰が、御用十手を呑んでることを、知って来たか、知らずに来たか――この、蟻《あり》一匹逃がさねえ見張りの真ん中へ、しかも、人もあろうに、黒門町の壁辰のところへ面《つら》ア出すとは、飛んで火に入る夏の虫てえやつで、いよいよこいつの運の尽《つ》きだ――壁辰は、黙《だま》ったまま、じイッ! と、焼くように、喬之助の眼を見|据《す》えた。
 壁辰は、左官が本職で、旁々《かたがた》お上《かみ》の御用もつとめているのである。岡っ引きとして朱総《しゅぶさ》をあずかり、その方でも、いま江戸で、一と言って二と下らない眼利《めき》きなのだ。まったく、喬之助はこのことを知ってこの黒門町へ来たのだろうか――それとも、ただの左官職とのみ思って、一時、下塗《したぬ》り奴《やっこ》にでも紛《まぎ》れ込んで八丁堀の眼を誤魔化《ごまか》すために、進んでここへ現れたのであろうか?
 かなり長い間だった。
 だんまり[#「だんまり」に傍点]なのである。
 双方、眼に力を持たせて白眼《にら》み合っているのだが――喬之助は?
 と、見ると、娘がひとり留守番をしているところへ上って待っていた、その壁辰が帰宅《かえ》って来た――のはいいが、一|瞥《め》自分を見るより、つ[#「つ」に傍点]と血相を変えて、いま眼前に立ちはだかったまんまだから、脛《すね》に傷持つ身、さては! お探ね者の御書院番を見破られたかな?!――と、今、ここで訴人《そにん》をされて押えられては、この七日間、苦心|惨憺《さ
前へ 次へ
全31ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング