《うしごめつくど》八|幡《まん》に近い神尾方へ送り込んだのだった。
 旧臘《きゅうろう》のことである。まだ十日とは経っていない。恋に敗れた近江之介が、新家庭の歓楽に浸り切っているであろう、喬之助を、事ごとに役所で苛《いじ》めるのに不思議はなかった。また、上役に媚《こ》びる番士一同が、それといっしょになって新参の喬之助を嘲笑するのも、自然であり、決して珍しいことではない。が、この元日の場合だけは、些《ち》と度《ど》が過ぎたようだ。

      五

 すこししつこ[#「しつこ」に傍点]かった。
 新手の浅香慶之助が前へ出て来て、いきなり、まだ顔を上げずに畳に両手を突いている喬之助を、下から覗《のぞ》くようにした。
「お眼覚《めざ》めかな。戸部氏もあの通り殊のほかお腹立ちの模様だから、ちょっと謝りなさい。あやまって改めてわれら一同へ年賀の礼をなされたがよかろう」
 喬之助は、ほんとに眠ってでもいるように、黙《だま》りこくったまま、身動きもしない。やはり平伏したまんまなのである。
「構うな、構うな。女の腐ったような御仁《ごじん》じゃわい」猪股小膳《いのまたこぜん》という色の黒い男が、そばから口を出した。「侍だと思うから腹も立つが、女の玩具の人形が裃を着て大小を差しているのじゃとみれば、こりゃ相手にするわれらこそ大人気《おとなげ》ないというもの」
 分別臭《ふんべつくさ》い顔をして、そこらを見廻した。仲裁《ちゅうさい》のようでもある。で、これを潮《しお》に止《よ》してしまえばよかったのだが、頭から喬之助を見くびり、あくまで呑《の》んでかかっている近江之介である。つかつかと進むと、ぴたり喬之助の前面《まえ》へ片膝ついて、のし[#「のし」に傍点]かかるように済んだことまで言い出した。
「先日もそうじゃ。請取《うけとり》御番の節は、必ず昼御番と取り違えたと称して、お身は、早朝出仕したことはないではござらぬか。如何に貰いたての恋女房じゃとて、朝の別れが惜《おしゅ》うて出仕に遅れ、それで御番士の役が勤まると思わるるかッ? のみならず、夕御番は両三度ならず欠勤、それも、一夜なりとも新妻《にいづま》と離れともないと言わるるのじゃろう――いやはや、金に眼がくれて町人の娘を貰い、それで得々《とくとく》たる仁だけあって、物の考えが無骨者《ぶこつもの》のわれわれとは天から違い申す。はてッ! 何とかものを言われいッ!」
 今にも掴《つか》みかからんばかりである。
 両御番に三種ある。請取《うけとり》御番、昼御番、夕御番の三組である。請取御番は早朝に出役《しゅつやく》して前夜当番の者から御番を受け取る。昼御番は、老中若年寄の登城前に出頭し、夕御番というのはつまり当直で、申刻《ななつどき》に出仕して朝請取御番が来るまで城中に詰め切るのである。一番すべて六人から出来ていて、交代に廻り持つのだが、戸部近江之介は組与頭である。番士の組替、御番の配列等をどうにでも決めることが出来る。その近江之介が喬之助に含むところがあるのだ。喬之助の知らないうちに番を切りかえておいたり、報《しら》せるべきことをわざと報せなかったり、いろいろ不都合が生じて、そのたびに喬之助が満座《まんざ》のなかで辱《はず》かしめられて来たのは、むしろ当然と言ってもよかった。してみると、何もこの日の成行きとのみ言わず、こういうことは、早晩《そうばん》何らかの形で現われなければならなかったのかも知れない。
 とにかく、神尾喬之助は、顔や姿に似げなく、神経の太い青年である。今のように、多勢の前で五月蠅《うるさ》く喧嘩を売られれば売られるほど、喬之助は、自分でも不思議なほど冷静になっていくのだった。で、全然《ぜんぜん》べつのことを考えながら、ただ手を突いて下を向いていたのである。
 その様子は、凄いような美男だけに、不貞《ふて》くされているようにも見えたに相違ない。ことに、喬之助が虚心流《きょしんりゅう》の達剣であるということを誰も知らなかったのが、間違いの因だった。
「何とか言えッ! 卑怯者ッ! 口が利けぬかッ?」
 近江之介は、口びるを白くして詰め寄った。
「泣きよる」
 池上新六郎が喬之助を顎でしゃくった。
「古老《ころう》に向って応答《こたえ》一つ致さぬとは――ウヌ、どうしてくれよう!」
「まあま、当人は泣きよる」
「なに、泣いておる?」
 見ると、なるほど、ひれ伏している裃の肩が、小さくふるえている。
「ほう、人形でも涙をこぼすかな」
「面白い、見てやれ!」
「そうじゃ、引き上げて、顔を見い!」
「構わぬから髷《まげ》を掴《つか》んで引き起すのじゃ」
 手を伸ばして、喬之助の頭髪《かみのけ》を握《にぎ》ったのは、大迫玄蕃だった。ぐいと力をこめて、ひっ張り上げた。
 くッくッくッ、というような声が、喬之助の口から洩れ出ている。大迫は、ちからまかせに喬之助の顔を一同のほうへ振り向けた。
 美しい泣顔を見ることだろうと思ったのが、喬之助は泣いていなかった。
 笑っていた。
 心から可笑《おか》しくてたまらないように、とうとう無遠慮《ぶえんりょ》に、喬之助は大声をあげて笑い出している。
 大迫に頭髪を預けたまま、それは屈託《くったく》のない笑い声だった。
 まっすぐ向いて、傍若無人《ぼうじゃくぶじん》に笑いつづけている。この喬之助は、一同がはじめて見る喬之助である。呆気《あっけ》に取られて、さすがの近江之介もしばらく黙って見つめていた。
「此刀《こいつ》を喰《くら》わそうか」
 喬之助は、相変らず愉快そうに笑いながら、周囲《まわり》の人を見渡して、帯刀の柄《つか》を叩いた。そして、立ち上った。びっくりした大迫は、とうに髷を離していた。別人のように荒々しく番衆達を突きのけて、にこにこ[#「にこにこ」に傍点]して、喬之助はさっさと詰所を出て行った。
 みなぽかん[#「ぽかん」に傍点]として見送っていた。

      六

 はっ! とわれに返ったように、近江之介が畳を蹴立《けた》てて喬之助のあとを追おうとした。
 血相《けっそう》を変えていた。峰淵、保利、荒木だの、左右に居た者が協力して、停めようとした。
「神尾は、確かに乱心致したとみえる。小心者《しょうしんもの》のことじゃ。薬が効《き》き過ぎたかも知れぬ。いま追うて出るは不策《ふさく》じゃ」
 口ぐちに同じようなことを言った。
 が、近江之介は、噪《さわ》ぎ立つ番衆を振り切って、もう部屋を出かかっていた。こっちから仕向けた争いであることは、衆目《しゅうもく》の見たところである。それなのに、この自分が、あの若輩を恐れ入らせることも出来ず、かえって最後に、あんな人もなげな態度を取られてみると、いきがかり上、このままには済まされぬ。しきりにそんな気がした。
「彼奴《きゃつ》、これを喰わそうかと刀を叩きおったわ。離せ! 引っ捕《つか》まえて、板の間に鼻を擦りつけてやるのじゃ。離せッ」
 とうとう一同を押し切って出て行ってしまった。二、三人が、ばたばたと続こうとした。その前へ、笠間甚八と松原源兵衛が大手をひろげて立った。
「お忘れ召さるな。殿中《でんちゅう》でござるぞ!」
 これが効《き》いた。殿中ということも、元旦であるということも、忘れていたわけではないが、前後して出て行った喬之助と近江之介が、何となく気になる空気を残して行った。しかし、相手はどうせあの喬之助である。大したこともあるまいが、どこか人眼につく場処で口論でもされては、新御番詰所一同の失態になるかも知れない。が、これも、考えてみれば杞憂《きゆう》に過ぎない。片方が組与頭の戸部氏である。まさか一時の怒りに任せて、そんな愚《ぐ》をするはずはない。かえって多人数がお廊下などを歩き廻っては面白くないから、安心して、ここで雑談でもしながら退出《ひけ》の時刻を待つとしよう。止められると、皆その気になって、出足《であし》を引っこめて一同詰所にすわった。
 大体が、近江之介におべっか[#「おべっか」に傍点]を使うための喬之助いじめである。だから、その張本人の近江之介がいなくなると、自然喬之助のことは忘れて、話題は急速にほかのことへ移って行った。駒場の鳥狩《とりがり》のこと、その時の拍子木役のむずかしかったこと、馬のこと、酒のこと、煙草のこと、刀のこと、女のこと、など、など、などである。ときどき、お終いに来て笑い返して出て行った喬之助のことが、誰かの胸へ帰って来て、ふっと気味の悪い沈黙の種となった。何だか、あの喬之助を見損《みそこな》っていたようにも考えられるのである。悪かったかな――かすかに、そんな気もした。
 で、大迫が、また喬之助を会話《はなし》へ持ち出して来て、
「笑いおったな。あいつめ。気《き》が狂《ふ》れたように笑いおった。拙者も、いささかぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として、髷を持つ手を離してしもうた。いや、豪胆な笑いじゃったぞ」
「何の、豪胆なことがあるものか。大迫氏は御自身を台に判断して、あの卑怯者を買い被《かぶ》っておらるる」
「そうかな」
「そうとも。たといかの柔弱男子が悲憤慷慨《ひふんこうがい》したところで、畢竟《ひっきよう》人形の泪《なみだ》じゃわい。何ごとが出来るものか」
 荒木陽一郎が、請《う》け合うように、こう言い切った時だった。
 部屋の横手に、お庭に面して窓がある。
 閉《た》て切った障子越しに、寒ざむしい白い陽《ひ》ざしが覗いていた。その障子が、何者かの手によってぱッと戸外《そと》から開けられたかと思うと、そこから、円い大きな物が一つ、すうウッと尾を引いて飛んで来て、どさり一同の座談の真ん中へ落ちた。ころころと横地半九郎の膝の方へ転がって行った。真《ま》っ赤《か》な南瓜《かぼちゃ》のような物で、一面に毛で覆《おお》われている。博多弓之丞が、その乱髪に手をかけて掴み上げた。ぶら提《さ》げてみると、一眼でわかった。首だ、人間の生首《なまくび》だ。今まで生きて饒舌《しゃべ》っていて、勢いよく部屋を出て行った戸部近江之介の首級《くび》だ。

      七

「あの、もう直《じ》きお父《とっ》つぁんが帰って参りましょうから、どうぞ御ゆっくりお待ちなすって――」
 お妙は、客へこう言いながら、長火鉢の埋《うも》れ火を掻き起した。そうして、火箸を扱いながら、ちら[#「ちら」に傍点]とその男を見た。
 客は、若い男である。紺《こん》の※[#「ころもへん+昆」、342−上−8]襠《ぱっち》を穿《は》いた膝をきちん[#「きちん」に傍点]と揃えて、窮屈そうに、長火鉢の横にすわっている。お妙は、自分だけしかいない時に、見知らぬ男の訪客を家へ上げたことが、何だか後悔されて来て、何の用だか知らないが、早くお父つぁんが帰って来てくれればいいと思いながら、炭を足し終ると、急いで茶の間を出て、台所へ来て一人ぽつねんと立っていた。がその、女と言ってもよい美しい客の顔がお妙の眼の底にしっくり焼きついていて離れようとしなかった。
 あの、西丸御書院番組与頭戸部近江之介が、殿中のお庭先で何者かに首を奪《と》られ、そして、その首が新御番詰所へ投げ込まれて、同時に、お帳番の若侍神尾喬之助が出奔《しゅっぽん》した元日から七日経った、七草《ななくさ》の日の午後である。
 この下谷黒門町《したやくろもんちょう》の左官職《さかんしょく》壁辰《かべたつ》の家に、親方の壁辰さんに会いたいと言って訪ねて来た、職人|体《てい》の素晴しい美男であった。ちょうど壁辰は、近所に棟上《むねあ》げの式があって、弟子を伴《つ》れてそっちへ顔出ししていて留守だったので、娘のお妙が出て行って応対すると、今も言ったとおり、水の垂《た》れるような美男である。左官の下塗《したぬ》り職人などの中には、どうかすると、下町の女をほろりとさせるような粋《いき》なやつが少くないし、それに、この下谷の壁辰ほど同業に名が知れていると、左官|武者修行《むしゃしゅぎょう》の格で諸国を流れている風来坊《ふうらいぼう》が、鏝《こて》一つ丼《どんぶり》へ呑んで他流試合の
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