領葵《はいりょうあおい》の御紋服に丸の扇の紋のついた裃を着て、腰は二つ折れに曲がり、赭顔《あからがお》の額部《ひたい》に皺が浪のように畝《うね》って、頭髪は真っ白である。近藤相模守は七十七の老人だ。しきりにエヘンエヘンと咳払いをつづけて来る。つまり、今わしがここを通っておるぞと報《しら》せて、行儀の悪いやつは、形を正させ、よくないことをしている者には、それを中止して何食わぬ顔をするだけの時間を与えようとしているのである。この大目附は、殿中ではもっともむずかしい役の一つとなっていたもので、何しろ、千代田城は将軍家の邸宅とは言え、現在《いま》で言えば、役所をも兼ねているところだ。多勢の人間が詰めかけて事務を執《と》り、仕事をするのだから、長いうちには色いろ面白くないことも出て来る。と言って、それを一々|咎《とが》めだてしていては、針の先のようなことまで表沙汰《おもてざた》にして、違反者ばかり出していなければならない。もっとも、百箇条の項目に触れるような重大事なら、存分《ぞんぶん》に取り締ることも処分することも出来るし、また、それが大目附の役儀でもあるのだが、やれ少々膝をくずしたの、雑談をしていたの、欠伸《あくび》をしたのということは、そうそう取り締れるわけのものでもない。といい条《じょう》、発見《みつ》けた以上は役目柄叱らない訳にもいかず、そんなことをしていては日もまた足らずなので、そこで歴代の大目附が、経験と必要に即《そく》して案出したのがこの咳払いである。大目附は、登城《とじょう》下城《げじょう》に城中を通るとき、えへん、えへんと盛んにこの出もしない咳をして歩く。殊に、若侍の多い溜《たま》りへでも近づくと、咳のしつづけである。だから、城士のほうでも心得ていて、このえへん[#「えへん」に傍点]が聞えて来ると、さあ大目附が通るというので、警《いまし》め合って坐《すわ》り直す、襟を掻《か》きあわす、袖口《そでぐち》を引っ張る、そこらを片付ける、急に忙しそうに書類などをめくり出す――一時的だが、咳払い一つで立派に綱紀粛正《こうきしゅくせい》の目的を達していた。とりわけこの近藤相模守茂郷は三十一の時に大目附へ召し出されて、七十七歳まで勤め続けて来た殿中の活字引《いきじびき》である。まるで一生を咳払いに送って来たようなもので――そら来たと御番衆が他所《よそ》行きの顔を並べていると、一段猛烈に咳払いをしながら、前の廊下を通りかかっている。
口をもぐもぐ[#「もぐもぐ」に傍点]させて、両手を袂へ落としている。これは正月のことで寒いから、老人だけに袖の中に温石《おんじゃく》を持って、手を温めているのである。
ちょっと立ち停《ど》まって、新御番詰所に控えている番士一同を霞《かすみ》のように見渡しているから、何か言うかなと思うと、そのまま何にもいわずに、大きな咳払いを一つ残して往《い》ってしまった。
この大目附近藤相模守がもうすこし遅れて退出して来れば、あんな騒ぎにはならなかったろう。すくなくとも、血を見るようなことは、例の遠くからの咳払いで未然《みぜん》に防ぐことが出来たかも知れないのである。
一月一日である。泰平つづきの公方様《くぼうさま》の世だ。その新年の盛儀である。大手|下馬《げば》さきは掃き潔《きよ》められて塵一本もとどめない。暁《あけ》の七つから一門、譜代《ふだい》大名、三千石以上の諸役人が続々と年始の拝礼に参上して、太刀《たち》目録を献上する。大中納言、参議中将、五位の諸太夫等には時服《じふく》二|領《りょう》ずつ下し置かれる。兎のお吸物とお茶の式がある。お白書院がこれに相伴《しょうばん》する。御三家が済んで、御連枝溜詰《ごれんしたまりづめ》、大広間|譜代《ふだい》、柳間出仕《やなぎのましゅっし》、寄合御番《よりあいごばん》、幸若観世太夫《こうわかかんぜだゆう》と順々に装束を正して将軍拝賀に出る。それこそ絵のような景色である。
兵馬《へいば》はすでに遠い昔の物語である。世の中はのんびり[#「のんびり」に傍点]している。こういうことにでも大げさな儀礼をつくし、式例を立てて騒ぐのでなければ生甲斐《いきがい》がないと言っているように見えるのである。町方はまたそれぞれの格式で年賀の礼に廻る。江戸中の商店は戸を閉ざして休んでいる。千鳥足が往く。吉方詣《えほうまい》りが通る。大川の橋や市中の高台に上って初日を拝する人が多い。深川の洲崎《すさき》にはこの群集がぞろぞろ続いている。と言ったどこまでも呑気《のんき》な世風である。
のんきはいいが、言い換えれば、退屈でしようがないともいえる。ことに、大した落度《おちど》がない限り、世襲の禄を保証されて食うに困らない役人などは、自然、閑《ひま》に任せて、愚にもつかないことで他人を弄《ろう》し楽しもうというようになる。いわば小姑根生《こじゅうとこんじょう》だが、当人はそうと気づいてやっているわけではない。自分の面目《めんぼく》にかかわると考えて、ひいては、役目のおもて天下国家の一大事とも観《かん》じているのだ。
早い話が、この戸部近江之介を筆頭《ひっとう》に御書院番の一同である。もっとも、これには色いろ仔細《わけ》のあることだが、いったい普段から総がかりで新役の神尾喬之助に辛《つら》く当って悦《よろこ》んでいる。その喬之助が、今日出仕して来て詰番一統に改まって年始の礼を述べないといって、組与頭《くみよがしら》戸部近江之介が最先に文句を言い出した。が、喬之助は、詰所へ這入《はい》ると同時に立派に挨拶をしたのである。その時はがやがや[#「がやがや」に傍点]話し込んで知らん顔をしていて、あとになって、はじめて喬之助の存在に気が付いたようにこんなことを言い出す。要するに難癖《なんくせ》だから、喬之助は、おとなしく平伏したまま無言でいた。で、いくらこっちばかり一人で怒っても、相手が黙り込んでいるのでは、喧嘩にならない。そこで、こうまで言ったら怒るだろう、怒ったら面白いぞ、という肚で、近江之介は呶鳴《どな》ったのである。
「卑怯者ッ――!」
そして、呶鳴《どな》ってしまってから、近江之介は、自分でもほんとに怒れて来た。
四
いま、老体の大目附も、咳払いと一しょに下城してしまう。
あとは、ちょっと森閑《しんかん》としている。
御書院番衆はやれやれ[#「やれやれ」に傍点]と寛《くつろ》ぎ出して、急にそこここに話声も起り、中断されていた喬之助いじめをまたはじめようとそっちのほうを見ると、もう皆頭を上げているのに、喬之助だけは、まだ平蜘蛛《ひらぐも》のように畳に手をついている。
袖ひき、眼配《めくば》せして、一同は喬之助を取り囲んだ。
箭作《やづくり》彦十郎は変にねっとり[#「ねっとり」に傍点]した口調である。
「神尾氏、居眠ってござるかの? あははは、その初夢に拙者もあやかりたいほどじゃが、ここは殿中、さまで疲労しておらるるなら、悪いことは言わぬ。下城《さが》って御休息なされい」
「疲労?」長岡頼母が頓狂な声をあげる。「疲労はよかったな。園絵《そのえ》殿と番《つがい》の蝶では、如何な神尾氏も疲労されるであろうよ」
下卑《げび》た言い草である。二、三の者は笑い声を立てたが、戸部近江之介は明白《あきらか》に嫌な顔をして、一そう憎悪に燃えるように、立ったまま喬之助を見下ろしている。
いわゆる猥談《わいだん》は詰所のつきものでもあるし、近江之介はこの豪《ごう》の者でもある。近江之介が嫌な顔を見せたのは、今の長岡の言葉が下品なひびきを持っていたからではない。それは、近江之介の胸底にある喬之助への嫉妬を、一段と掻き立てる役目をしたからである。
園絵というのは、神田三河町三丁目で質両替油渡世《しちりょうがえあぶらとせい》をしている伊豆屋伍兵衛《いずやごへえ》の娘で、本名をお園という当代評判の美女である。それがどうして園絵殿と言われて、新御番神尾喬之助と結びつけられ、しかもこうして再三この殿中新御番詰所の噂に上っているかというと、つまり、組与頭の近江之介と新入《しんい》りお帳番《ちょうばん》の神尾喬之助とが、町娘のお園を争ったのである。
伊豆伍《いずご》は、身上《しんしょう》二十五万両と言われる神田三河町の大店《おおだな》だ。一|代分限《だいぶんげん》で、出生《しゅっせい》は越後の柏崎《かしわざき》だという。故郷《くに》を出る時は一文無しだったのが、紙屑や草鞋《わらじ》の切れたのを拾ったりして、次第に身代を肥《ふと》らせて今日に至った。奉公人も多勢使って、江戸で伊豆伍《いずご》と言えば知らない者はないのだが、この伊豆伍の有名だったのは、その莫大な富ばかりではなく、今年|二十歳《はたち》になるお園という娘が、美人番付の横綱に載って名を知られていたからだった。閑人《ひまじん》の多いその頃のことである。何々番付という見立てが大いに流行《はや》って、なかにも、美人番付には毎々江戸中の人気が沸騰《ふっとう》した。その美人番付の筆頭に据えられたお園である。顔を見ようというので、金に困らない連中まで遠くの方からわざわざ伊豆屋へ質を置きに来る。一日に二度も三度も油を買いにくる。おかげで店はますます繁昌したが、そこで伊豆屋伍兵衛は考えたのである。
自分はもともと百姓の出だ。それがかくして土一升金一升の江戸で大きな間口《まぐち》を張る商家の主となったが、今度は一つ、何とかして娘のお園を名のある侍へ縁づけて、お武家を親類に持ちたいものだ。自家と対等、或いはそれ以上のところからさえ、町家なら、養子の来人《きて》は降るようにある。何しろ江戸一の美女に二十五万両の身代が随《つ》いているのである。自薦《じせん》他薦《たせん》の養子の候補者は、選《よ》りどり見どりだが、苦労を知らない大家《たいけ》の次男三男を養子に貰ったところで、よくいう、初代が『初松魚《はつがつお》伊勢屋の前をすぐ通り』二代目へ来て『二代目の伊勢屋の前に初松魚』、三代目となると『売家と唐様《からよう》で書く三代目』という川柳の通りに、悪くすると家の落目《おちめ》を招くにきまっている。それよりは、お店の番頭の中からでも見どころのある男を選んで、それに他家《ほか》から嫁を貰い、夫婦養子をしたほうがよくはなかろうかと、伍兵衛は、女房のおこよとも相談してそうすることに決心した。そして、どうせお園を手離《てばな》すなら、何の誰それと人にも言えるお武士《さむらい》の許へ嫁にやろうとなって、伊豆伍は、西丸御書院番頭の脇坂山城守の屋敷へ出入りしているのを幸い、親しく山城守に目通りを願ってこの儀を頼み込んだのだった。
町人とは言え、富豪である。それに、お園の名は武家社会へさえ知れ渡っているから、酔狂《すいきょう》に引き請《う》けた山城守だったが、伝手《つて》を求めて申し込んで来る若侍の多いのに、却って山城守が当惑したくらいだった。しかし、結局、もっとも熱心な二人が篩《ふる》い落されておしまいまで競争した末、近頃になって勝負はついたのである。戸部近江之介は役は上だが、年が寄り過ぎている。そこへいくと、神尾喬之助は、若いことも若いし、第一、家柄がいい。が、先ず何と言っても、お園が江戸一の美女なら、西丸御書院番の神尾喬之助は江戸一の、いや、ことによると日本一の美男であろう。そのことは、娘のお園より先に伊豆伍夫婦が惚《ほ》れ込んでしまったのでもわかる。
似合いの夫婦だ。内裏雛《だいりびな》だというので、美しいものを二つ並べる興味に、親達のほうが騒ぎ出した。もっとも、喬之助には琴二郎という小さな弟があるきりで両親はないのだから、親たちといっても伊豆屋の方だけだが、当人同士が恋い焦《こが》れていたことは、言うまでもない。山城守としては、近江之介に眼をかけているので、この婚儀にはあまり進まない様子だったが、先に立って反対すべきことでもないから、伊豆伍に頼まれるまま、部下の御家人で那見《なみ》市右衛門という老人を仮親《かりおや》に立て、名を園絵と改めさせて、牛込築土
前へ
次へ
全31ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング