になったことから、右近と肝胆相照《かんたんあいて》らす間柄になり、喬之助の秘密にも関与して、一|臂《ぴ》の力を藉《か》すことになっているのだが――その晩は別に、そんな思惑《おもわく》があって歩いていたわけではない。
 例の高い樹の上に胡坐を組んで、坐禅のような恰好《かっこう》で眠ろうと努めていたのだが、妙に眼が冴えて眠れないので、ブラリと町を歩きに来ただけのことである。
 深夜の漫歩《まんぽ》……目的はない。
 火の用心のおやじに出会う。
 おやじも魚心堂先生を知っているから、
「これは先生、大分|宵《よい》っ張《ぱ》りでいらっしゃいますね」
 挨拶して通る。先生はケロリとして、
「宵っ張りではない。早起きである。もう起きたのだ」
 人を喰った返辞《へんじ》だ。
 笑い声とともに帯屋小路を歩いて来ると、
「じゃア、わたしがお預りしてお家まで送って行って進ぜますから、ナアニ、御心配なく――」
 大声がして、喧嘩屋の店から出て来た男女ふたりの人影がある。
 知らずのお絃《げん》の声で、
「それじゃア先生、お頼《たの》みしますよ。その娘さんのお家は、黒門町とか言いましたねエ」
 これがハッキリ魚心堂先生の耳に聞えた。

      二

「さようです。下谷黒門町の左官職、壁辰さんの娘さんですよ――じゃアお妙さん……と言ったね。私が送って上げるから、夜みちも怖いことはない。駕籠で行きましょう。ナニ、わざわざ溜りを叩かなくても、そこらに夜駕籠が出ていましょう」
「はい、どうぞよろしくお願い申します」
 戸塚の三次との間に、そんな謀計《はかりごと》があって、頃あいをはかって飛び込んで来て助けたと見せかけ、こうして自分を源助町の喬之助の妻園絵の身代りに送り込もうとしているなどとは、ゆめにも知らないお妙である。
 偉《えら》いお医者とばっかり思いこんでいる長庵が一|緒《しょ》だ。
 すっかり安心して、つれ立って帯屋小路の家を出た。
 見えがくれに魚心堂先生が後を尾《つ》けていることは、長庵も、お妙も、気がつかない。
 魚心堂は、深夜に、知識《しりあい》の喧嘩屋の店から出て来たこの二人に奇妙に興味を感じて、そこは夜と言わず昼と言わず閑人《ひまじん》の魚心堂のことだから、何となくあとをつけてみる気になっただけのことだが――。
 帯屋小路は出外れた辻に夜駕籠が客待ちしている。
 長庵の交渉《こうしょう》で二梃の駕籠が仕立てられ、お妙が先に乗った様子だ。
 魚心堂がこっちから見ていると、長庵しきりに駕籠屋に耳打《みみう》ちして、駕籠屋は何かうなずいている。
 長庵がこっそりふところを探って駕籠屋につかませたのは、酒代《さかて》を先《さき》にやったのだろう。
 やがて長庵もあとの駕籠に乗りこんで、二梃前後して夜の街を走り出す。
 ここまでは不思議ないが、変なことには、下谷へ行くにしては、道が違うのである。
 ハテナ……と真剣に首を捻《ひね》った魚心堂は、つぎの瞬間、釣竿を肩に、あとを追ってスタコラ走り出していた。
 間もなくお妙も、どうやら方向が変だと気がついたらしく、駕籠の中から何やら大声で言うのが聞えたが、長庵も駕籠屋も答えない。
 ただ、一そう道を急《いそ》ぎ出しただけである。
 駕籠は、計画通り、芝の源助町へ向っているのだ。
 そして、魚心堂が尾行《びこう》している。
 こうして二梃の駕籠と魚心堂が雁行《がんこう》の形に急いでいるその源助町……。
 無形一刀流、神保造酒の道場である。
「お六……」
 造酒が、呼んだ。
 床柱を背に、大|胡坐《あぐら》である。
 脇息を前に置いて、抱きこむように、のめるように両肘《りょうひじ》を突いている。
 大盃を引きつけて、造酒、晩酌《ばんしゃく》が今までつづいているのだ。
 呼ばれたのは、造酒の妾《めかけ》のようになっている年増《としま》のお六である。
 前にすわって、横を向いてボンヤリ考え込んでいたのが、
「何ですよ」
「酌《しゃく》をしろ……」
 杯を突き出しながら、造酒はちょっと聞き耳を立てた。
 玄関に当って、人声がする。
「出てみましょうか。誰か来たようでございますよ」
「うむ、ナニ、お前が出なくても、誰かいるだろう」
「でも――」
「貴様は、出んでもよい。それより、酒を持って来い」
「そんなに召上《めしあが》って――」
「持って来いと言ったら、持って来い」
 お六が、仕方なしに立って台所へ行くと、間もなく、縁《えん》の障子があいて、取次ぎの門弟が顔を出した。
「先生」
「何だ。客か……」
「はい、脇坂様から、お約束の品を届けに参ったとか申しまして――」
「ナニ、届けの品……脇坂殿から――」
「はい」
 門弟《もんてい》はクスクス笑い出して、
「若い娘を駕籠に乗せまして……」
「おウ、いつぞやの約束、そうか」
 造酒が相好を崩した時、かしこまっている門弟のうしろに人影がうつって、
「御めん下さいまし。勝手に上りこんで参りました――さあ、こちらへ。そう何も怖がることはない」
 長庵が、お妙を押《お》すようにしてはいって来た。

      三

 この源助町の道場へ、長庵がお妙をつれこむのを見すまして、魚心堂はどこへ行ったか。
 それから間もなくである。
 また一人の侍が、この道場の玄関に立って案内を求めている。
 妙見勝三郎《みょうけんかつさぶろう》である。
 妙見勝三郎……御書院番士の一人。肩幅の広い、ガッシリした、四十恰好の侍だ。
 黒羽二重の羽織に、袴《はかま》、リュウとしたなりだがその夜ふけに供もつれずに何しに来たのか――それはとにかく。
「頼《たの》もう、頼もう……」
 と、しきりに奥を覗き込んで呼《よばわ》っているそのうしろ姿である。
 背中のまん中、上寄《うわよ》りのところに、羽織の紋をかくして半紙一枚の貼紙がしてあるのだ。
 背中の貼紙――「亡者《もうじゃ》」と大書してある。
 亡者……と書いた紙を背中に背負《せお》って、妙見勝三郎は神保造酒の許を訪ずれて来ているのだ。
 勿論、自分は知らないのだろう。
 誰だって、うしろに眼がないから、背中には何を書かれたってわかりっこない。
「頼もう、お頼み申す」まだやっている。
 背中に「亡者」の貼紙をしょった妙見勝三郎……不気味な夜の訪問者である。
 が、聞えないのか、奥からは誰も出て来ない。
 その奥の座敷では、造酒が、お妙を仲に長庵と対座《たいざ》して、「此娘《これ》が、脇坂殿よりお話のあった――」
「さようでございます。これがその、例の……」
 喬之助妻園絵という事を口に出しては、お妙が、そうではない。自分は――と言い出すにきまっているから、どうせあとで知れることではあるが、今は何とかこのまま押しつけて終《しま》わなければならない。
 曖昧《あいまい》な事を言って誤魔化《ごまか》してしまおうとするのだが、造酒は、テッキリ園絵とばかり思いこんでいるので、深く追究もない。
 ただお妙だけは、不思議なところへつれて来られて、それに自分についてさっぱり訳のわからないことを言いあっているようだが……と、少からず警戒《けいかい》の心が動いている。
 が、それでもまだ長庵を信じているので、黙って、うつむいて控えていると、さっき台所へ酒を取りに行ったお六が帰って来て、はいってこようとして障子のあいだから覗《のぞ》き込んだ。
 そして、長庵と顔が合って、あッ! と両方が驚いた拍子に、お六の手から銚子《ちょうし》が辷《すべ》り落ちて、……途端に、あわただしい跫音《あしおと》が廊下を飛んで来た。
 先刻の門弟である。
「先生、お玄関に、屍骸《しがい》が――首のない屍骸が……来て見て下さい!」
「何ッ!」
 畳を蹴《け》って突っ立った神保造酒、流石《さすが》は剣士、何時の間にか大刀を右手に部屋を走り出る、とプウーン! と鼻をつく線香のにおいが、どこからか香《にお》って来ている。
 見ると、隣室である。
 そこは書院だ。床の間のまえに、経机《きょうづくえ》が一|脚《きゃく》置《お》いてある。
 その上に首――妙見勝三郎の首、たった今玄関で呶鳴っていた妙見勝三郎の首……その首が、紙片《かみきれ》をくわえている。
 紙には、十番首と大きく書いてあるのだ。そして、机の前に煙草盆《たばこぼん》を置いて、それに線香が立ててある。
 紫のけむりがユラユラと――首供養《くびくよう》。造酒は、首を白眼《にら》んで、ウウム! と唸った。

   なみだ雨《あめ》

      一

 無形一刀、天下無二の使い手神保造酒先生は、紫いろの線香のけむりがユラユラと絡《から》む首を白眼《にら》んでウウム! と唸《うな》った。
 書院の床の間のまえに、経机が置かれて、その上に、生首が一つ飾《かざ》ってあるのだ……妙見勝三郎の首、たった今玄関で、
「頼もう!――お頼み申す!」と呶鳴《どな》っていた妙見勝三郎の生首である。
 しかも、その首が、紙きれをくわえているのだ。紙には、十番首と大きく書いてある。そして、机の前に煙草盆を置いて、それに線香が立ててある……首供養《くびくよう》!
 何とも不敵な趣向《しゅこう》だ。
 銀百足《ぎんむかで》の名ある豪刀を引ッ掴んだ神保造酒、さすがに度胆《どぎも》を抜かれたのか、片手を障子にかけたまま、その座敷へ踏み込みもせず、じッ! 眼を据えて凝視《みつ》めている。
 どうしてこの首がここにあるのか――考えて見た。
 今の先、お六を相手に酒を呑んでいると、玄関に人の訪れる声がした。お六が取次ぎに出ようとするのを止めて酒を取りにやったのだが、それと入れ違いに門弟の一人が来て、脇坂山城守の許から約束の品を届けて来たと言ってこの円頂《えんちょう》の男が園絵――造酒はお妙を喬之助妻園絵と感違いしている――をともなって居間へ通って来たのである。そこへ、お六が酒を持って帰って来て、村井長庵と名乗るこの男と顔を見合って双方驚いた。お六は、銚子を取り落した。同時に、さっきの弟子がまた飛んで来て、玄関に首のない屍体《したい》が転がっていると言う。
 何を馬鹿なことを!……と起ち上った拍子に、隣室からにおって来た線香の香《かおり》。開けてみたら、こうして首が安置《あんち》してあったのだ。
 妙見勝三郎――そう言えば、生き残りの番士を代表して、今夜一人で喬之助の件につき相談に来ると言って寄《よ》こした妙見勝三郎……。
 いつの間に首になったか? 誰が首にして此室《ここ》へ持ち込んだか――?
 玄関のほうからは、首のない妙見の屍体《したい》を取りかこんで立ち騒ぐ門弟どもの声が手に取るように聞えて来る。障子を掴んでいる造酒の手が怒りと驚きにふるえて、カタカタと障子が音を立てた。
「無形一刀の道場と知っての、その仕業《しわざ》に相違ないッ!――小癪《こしゃく》ナ!」
 急《せ》き込んで来る憤激に、ガッ! 咽喉を鳴らして振り向くと造酒の肩越しに、お六、門弟、長庵、お妙と、八つの眼が首に据って、無言、不動、呆然《ぼうぜん》……恐ろしい沈黙だ。
 一瞬、二瞬、三瞬。部屋の中には、首に纏《まつ》わって線香のけむりが立ちこめ、室外《そと》の廊下には、造酒をはじめ五人が眼を見張り、呼吸を呑んで釘づけになっている――。
 突如、恐怖のあまり、お妙がヒステリカルに泣き叫んだ。
「長庵さま! 帰して下さい。こんな恐ろしいお邸へ、何しにあたしをつれこんだのでございます! 早く出ましょう! 早く、下谷の自宅《うち》へ送って下さいまし……」
 造酒が聞き咎《とが》めて、長庵へ眼をやった。
「長庵!……と申したナ」
「へっ。村井長庵と申しまする麹町は平河町……」
「黙れッ! 人別《にんべつ》を訊きおるのではない!」
 お手のものの幇間式《たいこもちしき》に、おひゃらかしてこの場を濁《にご》そうとした長庵だが、咬みつくように呶鳴《どな》りつけられて眼をパチクリ、黙りこんだ。形勢不穏である。首の問題は第二、神保造酒はくるりと長庵に向き直っている。
「コレ坊主め! この女子《おなご》はどこの馬の骨だ
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