、それとなく注意していた満座の中で、妙に油御用のことにこだわって長ながと饒舌《しゃべ》り出したのだから、つまらないことであるだけに、そのかげに何か重大な曰くが潜んでいるに相違ないと、普段からあまり面白く思われていない山城守のことではあり、一同へんに白じらと黙りこくって、誰ひとり返答《こたえ》をする者もなかったのだが、どうも山城守、拙《まず》かった。時機も悪かったし、それに、山城としては、糸のように引いているねばならぬ[#「ねばならぬ」に傍点]に束縛されているだけに、一生懸命だ。つい妙なぐあいに自分ばかりその油御用の議題《こと》に引っかかってなんどき経っても一つことを繰り返しているので、近藤相模守には、ああして聾者《つんぼ》の真似《まね》をされるし、今また、清廉《せいれん》をもって鳴る平淡路守とは、言葉のいき掛りで正面衝突をしそうだし……いや、どうも、山城守、下《くだ》らないことを言い出して散々になりそうだ。
散々になりそうなだけに、山城守は、額部《ひたい》を蒼白くして、淡路守に向っていた。
「神尾の件は、飽《あ》くまで拙者の責任でござるによって、その妻の生家にも責任の一部を持たせてお城出入りをさし止め、拙者としてもお詫びのひとつにしたいと存じたまでのこと。それには、代りの油納めの者が入要につき、人をつかわして調べさせましたところ、幸い今申した筆屋幸兵衛なる律儀者《りちぎもの》を探し得ましたので、これを、伊豆屋の代りに推薦《すいせん》いたした次第、然るに、商家に頼まれたの何のと、心外の至り、山城、近ごろ迷惑に存ずる」
うまいことを思いついて立派に言い退《の》けたが、淡路守は、もう聞く興味もなさそうに、わざと冷然と太柱《ふとばしら》によりかかって、しきりに何かお書物を調べながら、隣座《となり》の米倉丹後にささやいてにこにこ笑っている。
激昂《げきこう》した、山城守、思わず大きな声が出た。
「淡路殿、御返答ばし承わりたい」
「エッヘン! 返答? 何の返答じゃイ。わしにはさっぱりわからん。あアン?」
近藤相模守が、論争をぼやかすべく、また呆《とぼ》けて顔を突き出した。銘めい、となり近処と小さなグルウプを作って、思い思いにひそひそ話し込んでいた一同が、これで、ひとつの長閑《のどか》な笑い声を立てると、その中の間の一枚あけ限りになっているお杉戸のかげに隠れてすわって、さっきからその議論に聴耳を立てていた人かげが、同時に眼じりに皺《しわ》を刻《きぎ》んでにっこりした。
越前守忠相である。
許されて、奉行として、中の間の陰聴《かげき》きをしているのだ。
四
「ムッ――!」
火と熱した白刃だ。乱剣に夜は更けて、闘う者は、声もないうなぎ畷、長岡頼母の屋敷では、降って沸いたような血戦に家族は近くの相識《しりあい》の家に避難して、いつの間にか、気のきいた者が襖障子を取り払い、縁に近い庭に仲間がかがり火を焚《た》いて、屋内にも燭台を立てならべ、明々とかがやいてまるで白昼のよう……そこの廊下の角、かしこの物かげから、自在に出没する二人の神尾喬之助――喬之助と右近――を、御番残士と源助町の勢は一人とばッかり思いこんで、白刃をひッさげた長岡頼母、博多弓之丞、飯能主馬の三人が、
「ウウム、どこへ参った」
「屋敷のそとへ逃げはしまいな」
「逃げたかも知れぬぞ、ことによると」
大声に話し合いながら、奥の部屋部屋を探し廻って、仏壇の置いてある一室の前を通りかかると、
「ちょっと小指をかすったのだ。なあに、大事ない。蚊が喰ったようなものだ」
ひとり言をいいながら、喬之助が、手拭を裂いて右手の小指を縛《しば》って起ち上ったところだ。
発見《みつ》けたのは、先頭《さき》に立っていた屋敷の主人《あるじ》長岡頼母である。
「むッ!」
ものを言うひまはない。おめきざま、一剣、尾を引くと見えて喬之助の胴へ――極まったか! に思われた秒刻、ガッ! 柄《つか》を下げて払い落した喬之助だ。流された頼母、勢こんでおのが力に押されて、タタタタアッ、のめり足、爪さきに畳を踏んで、ままよ、ふところ深くつけ入って鍔《つば》ぜり合いといこうとそのまま、飛び込んで来る……そこを! 腰をおとしざま、逃げるように退った喬之助、低めた剣を立て直して、つるぎの逆茂木《さかもぎ》、下正眼につけたうえ、はずみというものは恐ろしいもので、見事、頼母は自分のほうから追いかぶさるようにブッ刺さって、
「ウワアッ!」
叫喚《きょうかん》だ。血しぶきだ。朱硯《しゅすずり》を叩き割ったように、血が、ザッと音《おと》して噴火のように飛ぶ。いわゆる断末魔というやつ。このウーム! ウーム! という声は、何とも言われない恐ろしいものだ。刀が手を離れて、流星のように半弓をえがき、鈍いひびきとともに喬之助のうしろのたたみに突き刺さった。
頼母は、串刺しである。団子のようだ。切尖《きっさき》が背中へ貫《つ》き出ていた。とっさに引き抜かないと、すぐ肉がしまって容易に抜けなくなるもので、喬之助、グザッ! と今一度、深く突き入れながら、さあっと抜いた。同秒、いつ斬ったのか、頼母の首は、熱い血の池の中に、右の耳を下に畳にころがっていた。
あまりの手練に、顔いろを変えた後の二人である。無言、決して逃げるのではないが、ちょっと都合があって引っ返そうとすると、生きもののように伸び切った喬之助の長剣、博多弓之丞の肩をカッさばいて、ジャ、ジャ、ジャリイン! 肋骨《ろっこつ》が四、五枚、刃に触って鳴る音がした。ざくろのように赤い切り口、白い骨の突出《とっしゅつ》、空気をつかんでのけ反った博多弓之丞だ。
こうなると、もう何番首だかわからない。
そんな整理は、あとだ。
五
「手前《てめえ》たちッ、人をブッタ斬ったことがあるめえ。人を斬らねえ剣法は、畳の上の水練だ。なア、刀ってものは、叩いて斬れるもんじゃアねえ。押して斬る。引いて斬る。さアッ! とこう、押す、引く、ここの呼吸で斬るんだ。べらぼうめ、一つ斬って見せるから、踏みこんで来いッ!」
いまは主人のない屋敷の反対側の大広間で、他の番士一統と源助町の同勢を一手に引き受けているのが、喧嘩の先生、茨右近……観化流の定法。一|天無蓋《てんむがい》の大上段に振りかぶったまま、喧嘩師右近、さすがに場数を踏んでいるから呑気なものだ。
ひょうひょうした調子で講釈《こうしゃく》をしながら、
「何でエ! 雛《ひな》の節句《せっく》の内裏様や五|人囃《にんばやし》じゃアあるめエし、並んでじっとしていねえで、飛び込んで来たらどうだ。ヤイ、てめえ、眼の色が変っているぞ。それから、そっちのお方、失礼だが、汗が眼へはいりかけてらあ、拭きな、ふきな。その間はいかねえから、ユックリ汗を拭きなってことよ」
実に嘲弄《ちょうろう》し切ったもので、しかも、右近の足は、さっき殺《や》ったのか、真赤《まっか》に染まって四肢《てあし》や顔が青絵具《あおえのぐ》のような青い屍骸をひとつ、踏まえているのだ。見ると、日向一学である。何番首、そんなことはどうでもいい。
一同はこの右近を喬之助とばかり思いこんで、何しろ、室内に犇《ひし》めき合っているのだから、こうなると、多勢のほうが不利である。味方の誰をも害《そこな》うまいとすればするほど、満を持して容易に発し得ない。そのうちに、気を焦《いらだ》って源助町の比企一隆斎、鏡丹波らが、一時に左右から斬りこんで[#「斬りこんで」は底本では「軒りこんで」]、たちまち打《ちょう》ッ! の刃音、発《はつ》! の気合い、混剣乱陣《こんけんらんじん》の場と化し去ったが、茨右近は、大体の人相を喬之助から聞き知っていて、番士と源助町の区別はつく。源助町と無駄に刃を合わすより、一人でも多く番士を斃《たお》したほうがいいから、源助町の剣をひっ外《ぱず》して、長駆《ちょうく》、番士の群へ殺到すると、その気魄《きはく》の強さにおそれを抱いたものか、ひとり刀を提げてその一団から逃げ出したものがある。峰淵車之助だ。それと見て、右近あとを追う。
廊下づたいに、逃げるもの、追う者に競争がはじまった。
ほかの連中も、直《ただ》ちに雪崩を打って右近のあとを追い出した。が、人数の多いのは、この場合、どこまでも不利益だ。いたずらに肩を押し合い、揉《も》み合い、めいめい先へ出ようと邪魔しあって、お神輿をかつぐようにギツシリ廊下に詰まって、ワッショイワッショイ! そんなことは言わないが、まごまごしているうちに、逃げる峰淵車之助も追う右近も、一人ずつだから早い。ぐるぐる屋敷中を駈けめぐって、わっしょい連からはずっと離れてしまった。
部屋から部屋と抜けて夢中で逃げ廻っている車之助、フと一室へ飛び込むと、そこに、自分を追って来た喬之助が立っているのでギョッ! とした。いそいで引っ返そうとすると、うしろからも右近の喬之助が近づいてくる。こうして、二人の喬之助を一しょに見て、はじめてこの影武者の秘密を知ったのは、峰淵車之助が最初だった……が、その車之助は、この二人の喬之助に挾まれて、死以上の不気味《ぶきみ》な恐怖のうちに、間もなく首にされてしまったので、影《かげ》と影《かげ》二人法師《ふたりほうし》のからくりは、まだ相手方へ洩れはしなかった。
「おうい! 喬之助が二《ふた》……。」
車之助は、――人《り》! まで叫んで一同《みな》の耳へ届かせないうちに、根太《ねだ》から生えたように、部屋の敷居の上にチョコナンと、一個の首となって鎮座ましましていた。
あとから、一同が、屋敷じゅうを探しまわると、喬之助と右近は、車之助を斬ると間もなく引き上げたものらしく、風呂場で手を洗った形跡があって、壁の破目板《はめいた》に、血で大書してあった。
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五番首 笠間甚八殿
六番首 日向一学殿
七番首 長岡頼母殿
八番首 博多弓之丞殿
九番首 峰淵車之助殿
[#ここで字下げ終わり]
喬之助と右近が、うなぎ畷の往還《おうかん》へ出《で》ると、物ものしい御用提灯の灯が闇黒《やみ》ににじんで、ぐるりと長岡の屋敷をとりまいている捕手の勢……さてはッ! ここでも亦乱闘を余儀なくされる、と、二人が再び剣をとって身がまえにかかると、
「出て来たぞ! 逃げろにげろ! 刃物《はもの》を持ってるから傍へよっちゃあいけねえ。とても生捕りには出来ねえから、みんな逃げろ、逃げろ……」
捕者役人が刃物に恐れをなして逃げろにげろと叫んでいる。侍の斬込みである。刃物を帯びていることはきまりきっている。何も、逃げるために、今までわざわざ犇《ひし》と囲んで張り込んでいなくてもよさそうなものと、喬之助はフッとおかしさがこみ上げて来たが、その、しきりに逃げろにげろと呼ばっている声にかれは覚えがあった――。
たしか、壁辰父娘《かべたつおやこ》のはなしでは、金山寺屋の音松とかいったが、あの、七|草《くさ》の夜に、下谷の壁辰の家で、自分をこの右近と言いくるめて危いところを助けてくれた大兵の男の声……あの渋い声、あの時の津浪《つなみ》のような笑い声――そうだ。いつかも富士見の馬場へ現れて大岡殿が試乗に来るといって敵を払い、じぶんを助けてくれた……。
今夜は、敵を逃がさぬように、それとなくこの屋敷を包囲していてくれたのではなかろうか。
この、重ねがさねの好意あるしうちに、喬之助が、闇黒《やみ》の中で声のするほうへしきりに目礼を送っていると、騒動を聞き、乾児《こぶん》をまとめて駈けつけて来た金山寺屋の音松、大岡様に呼びつけられて、それとはなく言いつけられたように、
「怪我しちゃア、つまらねえ。逃げろ、にげろ!」
まだやっている。
戸外《そと》は大変な人集《ひとだか》りだ。もっとも、みんな火事と間ちがえているので、寝巻のまま飛び出して来たやつが、寒そうに胴《どう》ぶるいしながら、
「エオウ、吉イ、さっぱり煙が見えねえじゃねえか」
「そうよなア、こちとら気が短《みじけ》えんだ。どこでもいいから
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