顔つきもいささか緊張している。もっとも、ふだんから、どっちかというと緊張した顔つきのお絃姐御なのだが……例によって、火鉢の薬罐《やかん》に一本ほうりこんで、御意見無用いのち不知の文身《ほりもの》を見せながら、ちょいちょい指さきで摘まみ上げてみては、またズブリと湯へ落しながら、
「アアア、何か間違いでもなければいいけど――今夜は、二人揃って本郷追分《ほんごうおいわけ》のうなぎ畷《なわて》、長岡頼母とかってやつんとこへ、斬り込みに行くとか言って出かけたんだったっけ……あたしも、これから行ってみようかしら」
ふかしていた長煙管《ながぎせる》をガラリ抛り出して、お絃がブラリと起ち上った時、
「御めん下さいまし……」
あわただしく表の戸があいて、転《ころ》がるように跳《と》びこんで来た若い女――息をはずませて、ピシャリ! はいって来た戸を締め切りながら、お妙は、お絃を見上げた。
「ちょっとの間、お匿《かくま》い下さいまし。悪ものに追われまして――」
「何だい、お前さんは」
お絃は、思わず怖《こわ》らしい声になっていた。
「この頃よく家ん前を迂路《うろ》ついてる女《ひと》じゃないか。どうしたっていうのさ……」
送《おく》り狼《おおかみ》
一
菊の間、雁の間、羽目の間――。
千代田の大奥には、硝子《びいどろ》を透かして見るような、澄明な秋の陽《ひ》がにおって、お長廊下《ながろうか》の隅すみに、水のような大気が凝《こ》って動かない。
どこからともなく、菊がにおっている。
にっぽん晴れ。
金梨地《きんなしじ》を見るような日光が、御縁、お窓のかたちなりに射しこんで、欄間《らんま》の彫刻《ほり》、金具《かなぐ》の葵《あおい》の御紋《ごもん》、襖の引手に垂れ下がるむらさきの房、ゆら、ゆらと陽の斑《ふ》を躍らす桧面《ひのきめん》の艶《つや》――漆《うるし》と木目《もくめ》を選びにえらび、数寄を凝らした城中の一部なので……。
ひっそりと、井戸の底のような静寂《しじま》だ。
と、突如、車輪《くるま》が砂利を噛むように、お廊下に沿った一部屋に、わらわらわらと人声が湧いて、
「いや、拙者も、何も強《た》ってとは申しませぬが、しかし、伊豆屋伍兵衛と申しまするは――」
「しかし……何じゃナ?」
大目附《おおめつけ》近藤相模守茂郷《こんどうさがみのかみしげさと》は、七十七歳の老人だ。が、耳も眼も人一倍達者なくせに、都合の悪い時は、いつも耳の遠いふりをする。今がそれで、
「年齢《とし》のせいか、どうもよく聞えぬ。しかし、何じゃと言わるる?」
先刻《さっき》から、何か一生懸命に話して来た脇坂山城守は、妙に腰を折られた恰好《かっこう》で、
「いやなに、伊豆屋伍兵衛は、今回の騒動の張本人、神尾喬之助めの妻の生家であってみれば、このさい――」
エヘン! エヘン! と、相模守は、余計なことを言うな、その先は言わぬほうがよかろうといわぬばかりに、出もしない咳払《せきばら》いをしながら、さも聞き取り難いといった顔つきで、眉をしかめ、手を、耳のところへ屏風に作って、
「あアン?」
脇坂山城守は、一層|魔誤魔誤《まごまご》するばかりだ。
「このさい、伊豆伍のほうの油御用《あぶらごよう》はお出入りを差しとめ、いずくか然るべき――それにつけて、拙者|推薦《すいせん》いたしたきは、下谷長者町の筆屋幸兵衛なるもの……」
「暫らく」その時まで黙っていた平淡路守が、苦《にが》にがしそうに口を挾《はさ》んで、「お話の筋が違いは致しませぬかな」
「その筆屋幸兵衛なるもの、まことに勤勉《きんべん》者でござって」山城守は、言い出した以上、早く終いまで言ってしまおうと、この秋涼《しゅうりょう》に、額部《ひたい》に汗までにじませながら、「この者にお油御用をお命じつけなされたほうがよろしかろうと、拙者|愚考《ぐこう》いたし、係の者まで、それとなく申し入れましたところ、上役《うわやく》のお言葉さえあればとのこと、元より拙者、役目違いの儀は重々存じおりますなれど……」
淡路守は、ますます苦笑の皺《しわ》を深めて、
「さては、お頼《たの》まれなされた――」
山城守、これにはグッ! と来たらしく、人間、ほんとのことを言われると腹の立つもので、
「ココ、これは異なことを!」
淡路守のほうへ膝を捻《ね》じ向けると、相手の淡路は、端然と袴の膝へ手を置いて涼しい顔だ。
「頼まれた――と申したが、お気にさわりましたかナ。頼まれもせで、油御用が何家へ行こうと、何屋に下命されようと、左様な小事、何もかく御老役列座《ごろうやくれつざ》の席へ持ち出されいでも……」
「小事? なるほど、高がお油のことと申せばそれまでじゃが、かりにもお城の御用を、小事とは何事――イヤサ、小事とは何《なん》ごと――!」
「あアン! 何が障子じゃ? 年は老《と》りとうない。魚が泡《あぶく》を吐《は》いとるようで、さっぱり聞えぬ。何じゃイ、あアン?」
近藤相模守は、どこまでも金《かな》つんぼを装《よそお》って、両手を耳のうしろへ立てて、せかせかと膝を進めた。
またちょっと、シインと座が白《しら》け渡っている。
二
中の間である。
大目附お目附の詰所で、太い柱が立っている。片方は二間二枚のお杉戸、この一枚はしじゅう開いていたもので、縁のそとは箒目《ほうきめ》をみせたお庭土、ずウッと眼路《めじ》はるかにお芝生がつづいて、木石《ぼくせき》の配合面白く、秋ながら、外光にはまだ残暑をしのばせる激しいものがある。さんさんと霧雨のような陽が降って、遠くは、枝振りの変った松の若木が、一色ずつうすく、霞んで見えるのだ。
まことに結構な眺《なが》め……。
その結構な眺めを前に、いまこの中の間に寄合っている重役の方々は、大目附|近藤相模守《こんどうさがみのかみ》をはじめ、久世大和守《くぜやまとのかみ》、牧野備中守、岩城播磨守《いわきはりまのかみ》、お側御用《そばごよう》お取次《とりつぎ》水野出羽守、それに、若年寄の加納|遠江守《とおとうみのかみ》、米倉丹後守、安藤対馬守《あんどうつしまのかみ》、太田若狭守《おおたわかさのかみ》、それからこの平淡路守と脇坂山城守……謂《い》わば、まず閣議である。
その閣議の席に、喬之助のほうは埓《らち》が開《あ》きそうもないので、一まず閉門を許された脇坂山城が出て来て、開口一番、いきなり伊豆屋伍兵衛の油御用のことを言い出して、さきほどから、一同の苦笑を買うまでに、クドクド申し述べているのである。
油にしろ、蝋燭にしろ、お城御用には相違ないが、いうまでもなく雑用である。もっとも、毎夜毎夜大広間お廊下、お部屋お部屋へ立てつらねる燭台の油なのだから、一年二年と通算すればかなりの金額には上るけれど、それも何も、こんな席で論議さるべき問題では、勿論《もとより》ない。一同が、山城なにを言う。喬之助事件で長の閉門、気が顛倒《てんとう》いたし、いささか頭の調子が狂っているのではないかしら――と、真面目に相手にすることも出来ないといったように、みな擽《くすぐ》ったいような顔を見合って、山城守にばかり口を利かせて黙《だま》りこんでいると、要するに山城守は、喬之助があんなことになったから、その妻の実家である神田三河町の伊豆屋に出入りをさしとめて、従来その伊豆伍が一手に引き請けていたお城の油御用を取り上げ、その株を下谷長者町の筆幸、筆屋幸兵衛へ移し下げて然るべきだ、という論旨《ろんし》なのだ。
諭旨もすさまじいが、その後、筆幸がよほど莫大な賄賂《わいろ》を使って、すっかりきいたと見える。まったく、筆幸の袖の下も、今では大変な額に達しているには相違ないが、実は、これには、山城守は、ちょいと混み入った交換条件の下《もと》に動いているのだ。
山城守としては、神尾喬之助さえ討ち取ることが出来ればいい。
それには、芝源助町の無形一刀流道場の連中、ことに、御大神保造酒自身の出馬援助が絶対に必要だ。
そこで、ああして暮夜《ぼや》ひそかに門を叩いて助剣を求めた次第だが、その時、造酒の持ち出した条件というのは、喬之助の妻女園絵をつれて来て自分の手に納《おさ》めてくれれば、こっちも大いに乗り出して喬之助を首にしてやろうという。
山城守は、一も二もなくこの交換条件を引き請けたのだったが、この仕事には、どうあっても、かの村井長庵に一肌ぬいで貰わねばならぬ。
で、山城守は長庵をやきもち坂の屋敷へ呼んで、程よく膝を曲げて頼みこんでみると、長庵の曰く。
「へへへ、お安い御用でございます。さっそくその、園絵さんとやらを旨アく誘《おび》き出《だ》して、何でございましょう殿様、その、芝の源助町の、納豆《なっとう》、じゃアない、ヤットウの先生の神保造酒、無形一刀流の町道場、そこへ引っぱって行けあよろしいんで。なアに、御安心なさいませ。この長庵めが、一度ズンと呑みこんだ日にゃあ、へへへへへ、殿様のまえでございますが、ナニ、仕事のしぞこないということは、金輪際《こんりんざい》ございませんので。ところ――」
と、そこは、ただでは動かない抜目《ぬけめ》のない長庵が、変に口をモゴモゴさせて何かお礼のことを仄《ほの》めかしそうだから、山城守は先手を打つ気で、
「わかっておる。わかっておるぞ。其方《そのほう》からも前まえ頼まれておる筆幸《ふでこう》油御用《あぶらごよう》の一件ナ、あれを一つ、この機会に心配してやろう。そこは余が奔走《ほんそう》して、見事にまとめて見せるから、その代り、園絵を神保へつかわすことは、そちの働き一つじゃ。よろしく頼む」
長庵になってみれば、油御用の株が伊豆伍から奪われて筆幸へ廻れば、筆幸から途法《とほう》もない謝礼が転がり込む約束になっているから、元より万事、慾と二人づれでなければ一寸も動かぬ長庵である。
今度は、真剣に働き出した様子。
三
こうなると、奇妙な因果関係《いんがかんけい》で、山城守が喬之助の首を見るためには、どうあっても神保造酒の助けを得ねばならぬ。神保の助けを得るためには、どうあっても園絵を強奪《ごうだつ》せねばならぬ。園絵を強奪するためには、どうあっても、長庵の手を借りねばならぬ。長庵の手を借りるためには、どうあってもお油御用を伊豆伍から取り上げて筆幸へ下命させねばならぬ。どうあっても、と、ねばならぬの連続だが、つまり、早く言うと、山城守は、神尾喬之助を首にするためには、ここはどうあっても筆幸に油御用を廻さぬばならぬ……という、これが、さながら鎖のように、脇坂山城を雁字《がんじ》がらめに縛《しば》っているので、それから、もう一つ、筆幸に油御用を言いつけるには、どうあっても係の雑用物頭をうごかさねばならぬ。
山城守は、簡単に出来るつもりで、係の者に話してみたのだが、係の者のいうには、それは簡単なことだけれど、ちょいと上役のお声掛りがなければならない。そこで最後に、山城守は係の者を動かすためには、どうあっても高役の同意を得なければならないことになったので、実は山城、みな異議なく賛成してくれることであろうと、ごく軽い気もちで、閉門《へいもん》を許されて第一の登城の今日の寄合いに、さっきふらりと言い出してみたのだ。
山城としては、急いでいることはいそいでもいた。
長庵のほうを毎日のように盛んに急《せ》きついているので、園絵は今夜にも源助町へ連れ込まれるかも知れない。そうなると、交換条件だけに、さっそく長庵のほうへ筆幸油御用下命の吉報を齎《もたら》さなければならないので、どうせ大したことでない以上、ひとつざっくばらん[#「ざっくばらん」に傍点]にブツかってみよう。老役連は気軽に、アア、それがいい、それが好いと言ってくれるであろうから、その言葉さえあれば、もう占《し》めたもの……そう思って、何気なさそうに切り出したのだったが、ところで、他の人々は、そうは取らない。閉門が解けて初めて出てくる脇坂山城、きゃつ何を言うかと些《いささ》か好奇心も手つだって
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