った。その間に、八裂きに致してもなお慊《あきた》らざる奴は、麹町平河町の村井長庵であると仰せられた。穏当人《おんとうじん》の忠相をして、こんな激しい言葉を吐かせる位だから、よほどの悪人だ。張扇《はりおうぎ》が高座から叩き出したところによると、この長庵、駿州江尻在《すんしゅうえじりざい》、大平村《おおひらむら》、松平靱負様《まつだいらゆきえさま》御領分《ごりょうぶん》の百姓長左衛門という者の伜で、性来不良性を帯びていた。幼少の頃からかなたこなたとルンペン性を発揮して、公園のベンチで寝たり、小田原の少年刑務所を脱走したり、とにかく、十七、八の頃には、長脇差しの群に投じて博奕《ばくち》は三度の飯よりも好きという有様だ。だんだん評判が悪くなって生れ故郷の大平村にもいられなくなり、上京して新聞配達でもしようと思っていると、こういう不良少年には、それをまた相手にする不良少女というのがあるので、不良少女は何も都会だけの産物で、神宮外苑で黒いスポーツ選手にサインを求めるとは限らない。昔から田舎にもこの不良少女があったという証拠には、長庵の相手のお六である。同村内で恋を語らって、鎮守の森などで肥料臭《こやしくさ》いランデブウをやっていたのだが、このお六がまた、何とかして東京へ出て、ネオンサインの下でエプロン姿か、ジャズに合わせるハイヒールで、銀座か新宿――もっとも当時の新宿は甲州街道で、お百姓と馬方《うまかた》と肥《こ》やし車と蠅の行列だったものだが――とにかく女給かダンサーにでもなって華やかな日を送りたいという心掛けだから、すぐ長庵と話がきまって、二人手に手を取って大平村を出奔する。捜索願いぐらい出たかも知れないが、二人はズッと東京駅で降りて、ちょうど夜のことで、眼前《まえ》にドッカリ超弩級《ちょうどきゅう》に灯が入ったようにうずくまっているのが丸ビル……これといって手に職があるわけではなし、それに、たださえこの不況時代《ふきょうじだい》だから、長庵とお六、たちまち困って終う。そこで相談の上、お六は長庵と別れて、望み通りにカフエへ住み込む。これも、享保《きょうほ》のむかしのことだから、カフエではない。どこかそこらの料理屋へでも仲居奉公にはいる。暫らくの間は長庵と往来《ゆきき》もし、文通もあったのだが、そのうち、いつからともなく音信不通になって、今頃はどこにどうして居るやら?……長庵にとって、お六という女は、この大都会江戸の陰影に呑まれたきりになっているのだった。
 放蕩無頼《ほうとうぶらい》、箸にも棒にも掛らない長庵だが、この初恋の女お六だけは、その後も、何ということもなく忘れ得ずに、かくして時どき思い出している。
 今も、博奕《ばくち》に負けて無一物、たった一枚の着物も、擦り切れないように緊縮して、家にいる時は、いつも裸で済ましている長庵だ。暑い時だから、結句これもいいと、ぼんやり蚊を追いながら考えているのは、かなり前に別れたままのお六のことである。
「粋《いき》な年増《としま》になりやがったろう。畜生め!」
 と、この畜生め! で、また一匹威勢よく蚊をたたいた時、ガラリと鼻ッ先の格子を足で蹴開《けあ》けて、
「何だ、何だ、粋な年増がどうしたんだ」
 肩に弥造《やぞう》を振り立ててはいって来たのは、長庵の相棒《あいぼう》、戸塚《とつか》の三|次《じ》だ。三尺の前へ挾んでいた裾をパラリと下ろして、肩の手拭をとって、パッパッと足もとを払いながら、戸塚の三次は渋い声を出すのだ。
「おッ! まっ暗じゃアねえか。長庵さん、お在宿《いで》かえ」
「居るよ。ここにいらあな。まア、お上り」
 長庵は火打ちを捜《さが》して、そこらをガサガサ撫で廻している。

      五

 ガサガサ畳を撫で廻すような音を立てて、一同は、剣を取って群《むら》がり立ったが、しかし、大いに不思議である。
 出て行った喬之助が、すぐまた、まるで離れたところからはいって来る。
 が、これは、先の出て行った喬之助が真個《ほんと》の喬之助なら、あとの、はいって来たほうの喬之助は、ベツの喬之助――別の喬之助てのも変だが、つまり、神田帯屋小路の喧嘩屋先生、茨右近にきまっているのだが、番士達も源助町も、こういうからくり[#「からくり」に傍点]はすこしも知らないのだし、それに、顔形《かおかたち》は勿論、表情から着付《きつ》けから、刀まで同じなのだから、とっさに喬之助が、身をひる返して、その二十畳もあろう広間の反対側から現れたものとのみ思い込み、どうも神変不可思議《しんぺんふかしぎ》なやつだと内心舌を捲きながら、一同、それぞれ剣に弾《はず》みをくれて、一挙にこの茨右近を屠《ほふ》り[#「屠《ほふ》り」は底本では「屠《ほう》り」]去るべく、一団となって襲い掛ろうとすると、敷居を踏み切って斬り込んで来る! と見せた右近、スッと退ったかと思うと、ピタリ襖《ふすま》を閉《し》め切《き》ってしまった。襖が右近を呑んだかたち……。
 同時に、一同のうしろの、先刻《さっき》喬之助の消えた障子がサラリとあいたから、野分《のわき》に吹かれた秋草のように、一同が、そっちをふり返ると、今度はこっちに立っている……喬之助が。
 しかも、満面《まんめん》に不敵な笑みをたたえて、挑むが如き剣尖《けんさき》を躍動させているから、今はもう不思議だなぞと首を傾《かし》げてはいられない。カッ! と怒りを発した源助町の天童利根太郎が、
「ウヌ! 愚弄《ぐろう》致すかッ!」
 真っ先に打ち込むのを合図のように、バラバラバラッと縁側に雪崩出《なだれで》ると、いまここにいた喬之助の姿が見えないのだ。
「ヤーッ! どこへ行った――」
「いずくへ参った?」
「拙者はいま、眼のまえにあの顔を見て、体当りをくれてやろうと思いおったところだが……」
「喬之助とて、怪神の類ではあるまい。嘲弄致すにもほどがある」
 連中はプリプリして、抜刀を引っ提げながら手分けしてウロウロそこらを探し廻っていると、
「居る、いる! ここにいるぞ」
 まるで、お姫様が毛虫を発見《みつ》けたような消魂《けたたま》しい叫び声が、奥のほうから聞えて来る。保利庄左衛門、箭作彦十郎、飯能主馬、春藤幾久馬等の声だ。
「出合え! 出あえ!」
 などと古風に喚《わめ》いているのもある。こっちの縁側にいて、これを聞いた峰淵車之助、日向一学、遊佐剛七郎、それに屋敷のあるじ長岡頼母等の面々である。ソレッ! というので散《さん》を乱《みだ》し、奥の間さして駈け入ろうとすると、傍《かたえ》の廊下の曲《まが》り角《かど》から、静かな声が沸《わ》いて来て、
「いや、こちらに居ります」言うことが皮肉である。「駈け違いまして恐縮……わたくしも、方々探しておりましたが――」
 ヒョイと見ると長剣を正眼に構えた神尾喬之助が、うっとりしたような顔をして立っている。室内の灯を受けて、半身は明《めい》、半身は暗《あん》、染《そ》め分《わ》けの姿を冷々と据えて、けむりのごとく、水のごとく……。
「いや、ここにおる。ここにおる」
 峰淵車之助が、向うの連中に大声を揚げた。
 と、向うからも大声が返って来て、
「何をいう! 同じ人間が二人居ってたまるかッ? 喬之助は今ここで、俺たちと斬り結んでいるのだ」
 車之助も、負けていない。負けてはいられない。現に、いま眼前に、喬之助がいるのだから……。
「何をいうとは何だ! お手前は夢でも見ているのであろう。喬之助はここにいるぞ。みんなこっちへ来い。一ぺんに遣《や》っつけて終おう!」
「馬鹿を申せ。貴様こそ夢を見ているのじゃろう。喬之助はこっちにおる。ほらほら、彦十郎を相手に刃を合わせておる。みんなこっちへ来いッ! 一|遍《ぺん》に掛って遣っつけてしまおう」
 同じことを言って叫び合いながら、二手に分れて乱闘に移ったのだが、こうなると、ふたり一緒にこの長岡頼母の屋敷へ斬り込んでいる神尾喬之助と茨右近、どっちが喬之助でどっちが右近だか、見たところ全く同じなのだから、作者にもちょっと区別がつかない。

      六

 その、作者にもちょっと区別のつかない烏羽玉《うばたま》の闇黒《やみ》……。
 夜だ。
 神田だ。帯屋小路だ。人影だ。人影は、女だ。女は、下谷黒門町壁辰の娘、お妙だった。
 そのお妙が……。
 闇黒《やみ》だった。
 周囲も闇黒だったし、心も闇黒だった。心のやみ、若い女の心の闇黒――と言えば、それは、恋以外の何ものかであり得るだろうか。
 お妙は、あの職人姿で飛び込んで来て、自分が捨身《すてみ》のたんか[#「たんか」に傍点]で父壁辰の十手から救った喬之助を、忘れようとして忘れられないのだった。その喬之助は、あの夜長谷川町の金山寺屋の親分が、間違いでか好意でか――お妙はそれを、故意、しかも金山寺屋さんの好意と解していたが――喧嘩渡世の茨右近と言いくるめてくれたばっかりに、あぶないところを助かって、今はその喧嘩渡世に身を寄せ、ひたすら十七の首を列《なら》べるべく、復讐に余念ないのだが――その一|轍心《てつしん》のすがたを見るにつけ、お妙は、そうして物事に精魂を打ち込む殿方のお心もちを、頼《たの》もしい、尊いと思わなければならないと自分に言い聞かせながらも、内心、犇々《ひしひし》と淋しい気もちに包まれていくのを、どうすることも出来なかった。
 喬さまは、じぶんのことなど何とも思ってはいらっしゃらないのだ。喬さまには、御番衆の首を落して廻ること以外、何の生き甲斐も、何のたのしみも、おありになりはしないのだ。いや、そうではない。
 喬さまは、十七の最後の方の首を落したのち、世に隠れて、再びあの奥様と一緒になられ、面白可笑しくこの世を過ごされることを唯《ただ》一つの目あてに、ああしてお刀を揮《ふ》るっていられるに相違ない……。
 そうだ。喬さまには、奥様がおありなのだ。しかも、評判のおうつくしい方――。
 園絵さまとか聞いているが、言わば、その園絵さまの事から、こんどの騒《さわ》ぎも起ったようなもの。その園絵さま故に、それほどの苦労を遊ばす喬さまが、どんな事があっても、園絵さまをお見棄《みす》てなされて自分にお心をお向けになろうとは……いいえ、そういうことを考えてはなりませぬ。ゆめにも、そういうことを願ってはなりませぬ。園絵さまのおためにも、また喬さまのおためにも――。
 けれど、そうすると、この自分、妙というものは、どうなるのでございましょうか。
 ……お妙は、喬之助に会って以来、日に何度《なんど》となく自分に向ってその問いを発して来たのだが、心のどこを叩いても、この答えは見つからなかった。
 妻のある喬之助、それはわかっている。その妻を愛し、恋している喬之助、それもわかっている。
 それならば、それだけわかっているならば、スッパリと思い諦《あきら》めてしまえばよさそうなものだが、それがそうはいかないというのが、この世の中に、恋という厄介なことばが存在する所以《ゆえん》ではなかろうか。
 何事も理窟通りに、二に二を加えて四、八を二分して四ときまっていれば、誠に世話の要《い》らない人生で、その代り小説家は上ったり――ナニ、小説家なんかどうなったって構わないが、殺風景きわまる世の中になるであろう。
 お妙は、立ちどまった。艶《えん》な町娘の風俗《みなり》に、いつかの筆幸の棟上げに出した祝儀の手拭を吹き流しにくわえたお妙だ。歩くでもなく、進むでもなく、何ものかに引かれるように、何ものかに押されるように、毎夜《いつも》のように、ここまで来てしまったのだ。
 ここ……神田帯屋小路、油障子に筆太に書かれた喧嘩渡世の四字、その家の中では、お絃の姐御が、長火鉢の前に立て膝をして、何やらブツクサつぶやいている。
「おそいねえ。どうしたんだろう――?」
 と、さしずめ、うしろの柱時計でも見上げるところだが、享保の昔で、時計なんてものはないし、第一、そんな、郊外の文化住宅でサラリーマン夫人がハズバンドの帰りを待ってるような、そんな生易《なまやさ》しい場面ではないのだから、お絃の
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