ルリと遠巻きにして立っているのだが、やがて、保利庄左衛門がズカズカと出て行って、その、ひれ伏している神尾喬之助の前に蹲踞《しゃが》んだ。
「どこからおはいりなされた? ウム? どこからおはいりなされた? ちょうどいま、貴殿、取押え方を相談致しておったところじゃよ。よい時に参られた。当方は、これだけ人数がそろっておる。イヤ、せっかくの悲願《ひがん》首蒐《くびあつ》めじゃが、その貴殿の首狩りも、あの松原氏の四番首を最後に、今宵これにて打ち切りということになりますかな」
アハハハ……面白そうに肩を揺《ゆ》すって笑った。
二
アハハハ……面白そうに、肩を揺すって笑った。
面白そうに肩を揺すって笑いながら、越前守忠相は、ジロリと金山寺屋を見据えて、次ぎの言葉を出すまで、暫らくの間を置いた。
外桜田、南町奉行大岡忠相のお役宅である。
山の手の夜は海底《うなぞこ》のようだ。その暫らくの間を埋めて、深森《しんしん》と耳の痛くなるような、音のない夜の音が聞えて来る。
と言うと、寂然《じゃくねん》として風流澄心《ふうりゅうちょうしん》の感あるが、風流どころか、金山寺屋音松は、生きたこころもない。胸は波を打ち、耳は火照《ほて》るし、眼はくらんで、冷汗が腋の下を伝わるばかり、顔も上げられないのだ。
「へえ」
と言ったきり、口をモゴモゴさせて頭を掻いていると、越前はつづけて、
「どうじゃナ、わしはまだ一度も、早朝、富士見の馬場へ試乗に参ったことはない」
「へえ」
「へえではない」
「はい」
「はいでは解らぬ」
「恐れ入りましてございます」
「恐れ入った? 何を恐れ入っておるのだ」
「――」
「われから恐れ入ったと申す以上、何か貴様よからぬことを致しておるナ」
「じつは……」
「うむ。申して試《み》い」
「はい。じつぁお殿様、こういう訳でございます、……あの晩、あっしの乾児《こぶん》のひとりが駈け込んで参りまして、富士見の馬場で大喧嘩があると申しますので、御用をうけたまわっております手前、早速に人数を集め、仕度を整《ととの》えて繰り出しましたところが――」
「ウム、そこまではこの越前も存じておるぞ」
「さようでございますか。そこで、富士見の馬場へ飛びこんでみますと、大分の人数が渡《わた》り合《あ》っておりますので……」
「その事も存じておる」
「へえ、そこでその、何とか引き分けに致そうと存じまして、つい思いついたまま呶鳴《どな》りましたような次第で、それが、計らずもお名前を詐《かた》るようなことになりまして、何とも、恐縮の至りでございます」
「それも存じておる」
「そう致しますと、他《ほか》に何も申し上げることはございませんので」
「もう何も申すことはない? フム、確《しか》とさようか」
「――――」
「その、争いを致しておったものは、何《なに》やつと何奴《なにやつ》か」
「何でも、芝の源助町とかの――」
「無形一刀、神保造酒の道場の者ども。よろしい。が、それは一方である。喧嘩には相手方があるはず。相手は何者じゃ」
大岡様の前に、嘘言《うそ》をいって通らないことは、誰よりも一番よく心得ている金山寺屋音松である。死んだ気になって眼をつぶって、すっぱりと言った。
「その喧嘩の相手は、神尾喬之助でございました」
「そうか。神尾を助けるために、お前はわしの名を持ち出したのじゃな」
「助けると申して別に――」
「神尾は、天下を騒がし、法を愚弄《ぐろう》し、あまつさえ番衆の首を落し廻るとか大言壮語致しおる大痴《おおたわ》けじゃ。もっとも、既に二人とか三人とかその首にされたそうじゃが……音松ッ!」
「はッ」
「何故|召《め》し捕《と》らぬ?」
「何故と申しまして、別に……」
と、言いさして、音松がふッと顔を上げて越前守を見ると、烈《はげ》しい言葉《ことば》とは正反対に、忠相はニコニコしている。
静かな小声で、言った。
「この次ぎから、必ず召し捕れ。よいか、召し捕るのじゃぞ。召し捕る……つまり生獲《いけど》りじゃ。殺してはならぬ」
「しかしお殿様、先方は切れものを持って暴《あば》れ廻りますので、中なか召し捕りますことは、中なか――」
「困難《こんなん》か」
「へえ」
「然らば、そなたのほうで逃げろ。先方を逃がすのではない。殺してはならぬ。殺されても耐《たま》らぬから、そちのほうで逃げるのじゃ」
「はッ。なるほど」
「わかったか。わかったな。次第によっては、わしは又何度、富士見の馬場へ試乗に参ってもよいぞ。あっはっはっは」
パチリと一つ、碁石を置きながら、
「それだけじゃ。帰れ」
忠相が、言った。金山寺屋音松は、忠相の真意《しんい》を覚《さと》り、人間忠相に触れたような気がして、もし相手がお奉行様でなければ、音松は起って行って、
「やい、話せるぞ」と、力いっぱい背中を叩《たた》きながら大声に笑いたかった。「おめえもやっぱり、弱いほう、理《り》のある方へ味方しようてえのかい。江戸っ子だ。嬉しい江戸っ子だ……」
が、現実にはかれは、何気なく言っていた。
「殺さねえように捕まえる。それで、相手が刃物を持っていると、こっちも刃物で抗《むか》って行かにゃならねえ」と、考え考え首を捻《ひね》って、「すると、むこうも危えし、こっちもあぶねえから、そこで、逃げるように……フウム、ところで、先様《さきさま》アいつも人斬庖丁《ひときりぼうちょう》を離したこたあねえのだから、いつも逃げ――」
金山寺屋は、ぴったり平《ひ》れ伏《ふ》した。
「いや、解りました。解りましてございます」
何だ、まだそこにいたのか……というように、忠相の眼が音松へ向って、
「よい、よい、行け」
切長の眼が、射《い》るように音松の横顔に据《す》わっていた。
三
切長の眼が、射るように喬之助の横顔に据わっていた。
荒木陽一郎だ。
畳に両手を突いた不動の伏像――喬之助を包囲して、瞬間、声もなく立ちはだかっていた十三人の番士と源助町の一統の中から、ワヤワヤと声が沸いた。
「飛んで火に入る夏の虫とは、まったくうまいことを言ったものだな」
「しかし、よくもこう大勢お歴々の揃っておる場所へ、図々《ずうずう》しく現れたものじゃな」
「四番首まで討って、天下に怖いものなしと、己惚《うぬぼ》れが嵩《こう》じておるのじゃよ」
「喬之助討取策の協議中に、当の喬之助が顔を出すとは、あまりお誂《あつら》え過ぎて、呆気《あっけ》ないワ」
「が、いつの間にどこからはいりこんだのであろう……」
「そッと入り込んで、吾れわれの話に加わっておったのじゃ。それにしても、元日の時そのままに、ああして、何を言われても動かぬところ、彼奴《きゃつ》なかなか芝居気がござるテ」
こうなれば、今でも直ぐに討ち取れると思うので、一同は喬之助を前に、にやにや笑いながら、大声に話し合っていると、実際、喬之助は、元日の時そのままに、何と言われても身動きだにしないでいる。
いつの間にかそれは、あの、騒動の発端《ほったん》の再演になっていた。
ひれ伏している喬之助の肩が、細かくふるえている。
「うむ、また泣いておるな」
「発見されて、ここで命を落すのが口惜《くや》しいのであろう」
飽《あ》くまでも衆を頼んでいる一同である。やにわに、笠間甚八がズカズカと出て行って、
「泣きおる。それは面白い。一つその口惜しがっておる面を見てやれ」
「そうじゃ。そうじゃ」日向一学が、止せばいいのに背後のほうから唆《け》しかけて、「髷《まげ》を掴んで引き起すのじゃ」
中にひとり、元日の時の成往《なりゆ》きを覚えているのがあって、
「ナニ、それは、其奴《そやつ》の法《て》じゃ。泣きよると見せかけて笑いおるぞ」
大勢集まれば、気が強くなるに決まっている。殊に、名打ての三羽烏をはじめ、源助町の連中も十数名|控《ひか》えているのだから、気の強いことこの上無しだ。
「髷を掴《つか》んで引き起すのじゃ」
一学が言い切らぬうちに、
「構《かま》わぬ。コヤツ……」
と、呻《うめ》いた笠間甚八である。髷をひッ掴んで顔を釣り上げようと喬之助のほうへ手を伸ばした。
その時である。
「うふッ」叩きつけられたように伏していた喬之助が、噴飯《ふきだ》したのだ。「あははははは、御苦労な! 土偶人形《でくにんぎょう》の勢揃い……カッ! これでも喰《くら》えッ!」
同時だ。哄笑と一緒に伸び切った喬之助の上半身だ。ぱアッ! 片膝が前へ出たと見えたとき、そして、右手が刀の柄へ行ったと見えた刹那《せつな》――。
喬之助は、抜身《ぬきみ》の一刀を糸で腰に釣って、それに、羽二重《はぶたえ》の単羽織《ひとえばおり》をフワリと掛け、刀身をすっかり隠して、鞘《さや》に納まっている如く見せかけていたのだ。それが今、手が柄に掛ると同瞬《どうしゅん》、そのまま撥《は》ね上げればいいのだ。刀は、みずから糸を断ち、羽織の裾《すそ》を潜って、眼前に躍り出る。その刀身に、スウーッ! と血糊が走って……虚心流《きょしんりゅう》竹輪切《ちくわぎ》りの一剣だ。
今まで何か饒舌《しゃべ》って動いていた甚八の首が、宙に弧《こ》を描いてドサッ、畳を打った。
「五番首――笠間甚八殿」
喬之助は、うめいた。静かに立ち上っていた。切り落したような沈黙だ。その沈黙の中で、喬之助は、血を引いた抜刀を片手に、ソロリ、ソロリと退って、障子に手をかけて縁側へ出ようとした。
それで初めてわれに返ったように気のついた番士一統と源助町の勢である。池上新六郎、山路重之進、大矢内修理、比企一隆斎、鏡丹波らを先頭に、抜き連《つ》れて畳を蹴《け》り、喬之助に追いすがった。が、喬之助は、手早く障子をあけて、消えるように縁へ出る。と、同じ秒刻《びょうこく》に、反対側の、奥の間へ通ずる襖がサラリとあいた。声がした。
「おい、ここだ。ここだ」
ギョッ! として振り返った一同の眼にうつったのは、やはり、神尾喬之助……。
神出鬼没《しんしゅつきぼつ》という言葉があるが、これはまたどうしたというのだ!
同じ人間が、出て行くと同時に、反対側から、はいって来る――。
一同は、廻れ右をして奥へ斬尖《きっさき》を揃えながら、コソコソ顔を見合って、首を捻《ひね》った。
四
村井長庵は、ピシリ! と大きな音を立てて、裸の尻ッぺたを叩いた。赤い血が、小さな花のように咲いて、蚊の屍骸が一匹、押し葉のように潰れて貼りついていた。
長庵は、舌打ちをして、蚊の屍体を摘《つま》み上げた。
「腹に縞《しま》がある。藪っ蚊だ。こいつは非道《ひで》えや」
うす闇黒《やみ》の中で、ひとり言をいった。言いながら、医者だけにクスリと笑って、
「藪のところへ、藪ッ蚊とは、この野郎、洒落《しゃれ》たやつじゃアねえか」
つまらないことに感心をして、独りでニヤニヤ笑っているのだが、自分の事を藪と知っているのは、長庵、悪党だけに中なかおのれを心得ている。
「ただの一夜を七夕《たなばた》さまが、それも雨ふりゃ逢わずに帰る。何と逢瀬《おうせ》があわれやら――」
七月のことで。
長庵はかく低声に唄いながら、その、夕方になっても未だ灯もつけない、空家《あきや》同然のおのが住居の中を、珍しそうに見廻している。
麹町平河町一丁目。町医長庵が家。
打ち水、蚊やり……と世間さまは暑熱《しょねつ》と闘うに忙しいのだが、この長庵の宅と来たら、これはまた恐ろしく涼しい限りで、家具と名のつくものは愚《おろ》か、医者の道具らしい物も何一つもなく、まことにサッパリと夏向きである。おまけに、本人の長庵はこの通り丸裸で、それでも、坊主頭に頭巾《ずきん》だけは被《かぶ》ったままで、六尺ひとつ、壁に凭《よ》り掛って、先刻からモゴモゴ何か言っている。
柄になく、思い出に耽《ひた》っているところ……どうもお金がなくなると思い出にふけるのが、この長庵先生の習癖《くせ》のようで。
大岡越前守忠相様が、南のお町奉行を二十|年《ねん》御勤役《ごきんやく》にな
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