夜、コッソリ屋敷を脱《ぬ》けて依頼に来た以上、ここは何とあってもこっちの味方に引き入れねば、と、山城守、平素の剛愎《ごうふく》はどこへやら、ほとんど泣かんばかりのおろおろ声だ。
「そんな事を言わずに、お身を見込んで、山城みずからかく頼みに参ったのじゃ。聞くところによれば、番士どもの依頼によって、当道場から徹宵護衛《てっしょうごえい》の士が出ておると申すこと。その御親切を一歩進めて、こちらの手で喬之助めを討ちとって頂きたいと、山城、ササササマッこの通り、懇願仕る」
造酒は、愉快でたまらない。もう少し骨を折らせたあげく、それではというんで渋しぶ引きうけよう。そう思っているから、表面はどこまでも迷惑《めいわく》そうだ。
「何を申すにも、この泰平の世でござる。拙者の輩下《はいか》から乱暴者が飛び出して」面白そうに胡坐《あぐら》の膝をゆすぶりながら、「お膝下を騒がすようなことがあっては、――頼んだほうも頼まれた方も――」
と、ここで造酒、やにわに顔を突き出して、ポンと首すじを叩いた。
「お互にこれでござるテ。あははははは」
首! という言葉に敏感になっている脇坂山城守、首を逆《さか》さまにして、即ち、ビクッ! と怯《おび》えた。
「ぷッ! うウ、それでは、何とあっても承引《しょういん》出来ぬ。この山城に恥をかかすと言わるるのかッ?」
「いや、一|徹《てつ》に[#「一|徹《てつ》に」は底本では「一|撤《てつ》に」]そうでもないが……」
「神保ッ! 賞与《しょうよ》を取らすぞ」
「ふム、その賞与というのは何だ、念のため、聞いて置こう」
「その賞与か。何でもやる、イヤサ、何でも取らせる」
「そうか。何でもくれるか」ドサリと片手を突いて山城守を見上げた神保造酒、ニッコリ笑うと、ギョロリ眼が光るのだ。「コリャ面白い。註文があるぞ」
「註文? よし。言え」
「女をひとり貰いたいのだ」
六
「なに? 女……?」
「うむ。その喬之助の女房で園絵とかいう大分評判だが、それを一つ、お主《ぬし》の力でこっちへ渡して貰いたい」
「園絵――か」と暫らく考えていた山城守。
「黙っているところを見ると、不承《ふしょう》だナ」造酒に促されて、
「いやいや、不承のことはない。が、その園絵さえつかわせば、必ず――」
「言うにや及ぶ。喬之助ごとき……コレだ」神保造酒が、小指で畳を打って大笑すると、山城守は頼もしそうに、
「ウム、その一言が何よりの頼りじゃ。園絵のほうは、さっそく長庵めに命じて――」ひとり言、何か心中に画策をめぐらしている。造酒は、傍《かたわ》らの愛刀、阪東《ばんどう》二|郎《ろう》幸村《ゆきむら》の鍛《う》って野分《のわけ》の称ある逸剣を取って、ニヤニヤ笑いながら、「金打《きんちょう》しよう」
「うむ。盟約《めいやく》の証《しょう》じゃ」
行燈《あんどん》の下、山城守と造酒、打《ちょう》! 打! と鍔元を鳴らして、微笑を交した。園絵をさらってこの神保造酒に与えるという大仕事――その役割りがまたしてもどうやら長庵へ行きそうで、どうもこのところ、村井長庵ばかに忙しくなりそうだが、話も大いにこんぐら[#「こんぐら」に傍点]がって来て、作者も楽でない。それはいいが――。
ふたりがぼそぼそ話し合っている部屋のそとの縁に、ソッと立ち聴きしている女のすがたがあった。
市松お六といって、深川の羽織上《はおりあが》り、神保造酒の妻とも妾《めかけ》ともつかず、この道場を切り廻している大|姐御《あねご》なのだ。
姐御とは言ったが、それは本性《ほんしょう》のこと、町道場でも武士の家にいるのだから、髪なんかもちゃんと取り上げて、それらしく割りに堅気な、しかし飽くまで艶《えん》な拵《こしら》え。
いま、園絵を褒美にやろう、貰おうの約束が出来たのを聞くと、嫉妬であろう、耳をそばだてていたお六の顔に、歪《ゆが》んだ笑いがうかんで、何ごとか心に、ひとりうなずいている様子。
と、その時、道場のほうから廊下を曲って、大勢のあし音が近づいてくるから、そんなところに立っているのを見つけられては面白くない。お六は、急ぎ反対側の角《すみ》へ隠《かく》れソッと覗いていると、鏡丹波を先頭に、多くの門弟が廊下を来て、部屋のまえに立ちどまった。
「先生ッ!」中から障子があいて、ノソリと造酒。
「何だッ! 騒々しい」
一同はベタベタと板廊下にすわって、鏡丹波が、言った。
「出ました先生、今夜は、四谷こぶ寺うらの横地半九郎殿方へ遊佐と春藤と私と三人、夜番に頼まれて行っていましたところが、ただいま、神尾喬之助が現われまして、イヤどうも大変なチャンバラ……」チャンバラなどとは言わないが、そんなようなことをいう。聞いていた山城守は、ギックリしながらも、
「サ! いよいよ其許《そのもと》の出幕じゃ。約束どおり――」
すると、大きく合点《うなず》いた造酒、一同を振り返ってガミガミ呶鳴《どな》った。
「おれが行く迄のことはない。三羽烏の一人を立てて、みんなで行け!」
「しかし先生、大矢内氏も、比企氏も、天童氏も、三人ともぐっすり眠っていて、いくら起しても起きないんで……」
「そうか。起すには起し方があるのだ。三人のまくら元で、刀を合わして音を聞かせろ」妙な眼覚《めざまし》時計だが、とにかく、こいつをやったのだろう。間もなく、三羽がらすの一人天童利根太郎を真っ先に、鏡丹波を案内に立てた同勢五十七名、瘤でら裏へ駈けつけて神尾喬之助(実は茨右近)を一|潰《つぶ》しに潰そうと、揉《も》みに揉《も》んで深夜の巷を飛んでいた。
七
園絵はもう築土八幡の家へ帰って、帯屋小路の喧嘩屋には、神尾喬之助がひとり、くどいようだが茨右近と同じ顔と服装で、ゴロリ手枕《てまくら》、壁《かべ》に貼った十七人の名前を見上げて、つぎの犠牲者とその襲撃法《しゅうげきほう》でも考えているところだ。
そこへ、息せき切って帰って来た知らずのお絃……その話を聞くと、今夜、喬之助には内証で、右近が横地半九郎の家をおそったところが、源助町の道場から用心棒《ようじんぼう》が来ていて、そのうえ、一人はすぐに、もっと援兵を呼びに芝へ走り帰るのを自分は、右近について行っていて見届けたから、その足で迎いに来たのだという。皆まで聞かずに、喬之助は手慣《てな》れの剛刀を腰に四谷をさして駈《か》け出した。
お絃、喬之助について直ちに引っ返すかと、思うとほかに用がある。もう一人、魚心堂先生を呼んで行きたいのだ。
魚心堂先生。
魚を追って歩くのだから、どこにいるとは限らないが、当時外神田に地蔵ヶ池という小さな池があって、当分はその辺にくらしているという先夜の話だったから、お絃がそこへ駈けつけてみると、なるほど、池の上に枝を張り出した一本の大樹がある、その枝に跨《また》がって、魚心堂先生に昼夜の別はない、夜中だというのに、いま悠々《ゆうゆう》と糸を垂れていらっしゃる。この間の晩、右近の髪に釣針を引っかけて糸引きになったあと、三人でこの池畔《ちはん》へ来て、色いろと話があり、喬之助の事件も打ちあけていざという場合には手を借りることになっているのだから、お絃は地蔵ヶ池へ飛んで行って、魚心堂が鳥みたいにとまっている樹の下に立った。
「お魚《さかな》の先生!」
妙な呼名《よびな》だが、変り者同士のことだから、あまりおかしく響かない。
「しッ! 深夜に当って大声を発するとは怪しきやつ」ナニ、自分のほうがよっぽど怪しい。「第一、魚族《ぎょぞく》が逃げるではないか」
大変な学者だけに、魚のことをわざわざ魚族といった。こういう言葉を使って衆愚《しゅうぐ》を感心させるのが、わが魚心堂先生の主義だというのだが、これはどうも当てにはならない。
とにかく、お絃のはなしを聞いては、魚心堂も呑気《のんき》に釣りなどしていられないから、そこで、これだけは柄《がら》になく立派な釣道具をしまいこみ、お絃といっしょに四谷をさして駈け出す。
この、喬之助、魚心堂、お絃の三人組と、天童利根太郎、鏡丹波を頭《かしら》に源助町から押して来た五十七名とが出会ったのが、瘤寺に近い富士見《ふじみ》の馬場《ばば》、ソロソロ東が白もうという頃であった。夜露の野を蹴って乱闘《らんとう》は朝に及ぶ。源助町の勢は驚いたろう。何しろ半九郎方で暴れているはずの神尾喬之助が、いきなりここへ飛び出したのだから――もっとも、こっちがほんとの喬之助なんだから、知っていれば、べつに不思議はないけれど……。
未明《みめい》、さわぎを聞いた御用の者が駈けつけて来て、剣林《けんりん》、勝負をそのままに四散したが、こうして、江戸の春は更《ふ》けて、やがて青葉若葉の初夏となった。本郷追分のさき、うなぎ畷《なわて》と呼ばれるところに、西丸御書院番、長岡頼母の屋敷、全番士が寄り合って対喬之助策協議《たいきょうのすけさくきょうぎ》の最中、あるじの頼母が見つけたのだ。自室の障子に紙札がかかっている。
[#ここから5字下げ]
┌────┐
│ 忌中 │
└────┘
[#ここで字下げ終わり]
……このおれが、生きている死人! とは? 頼母、蒼白になっていた。
ここに居る!
一
あの夜、富士見の馬場の乱闘は、無勝負に終ったのだった。こうだった。喬之助の知らぬうちに、四番首挙げて悦ばせてやろうと、茨右近が独断《どくだん》で、四谷自証院《よつやじしょういん》、瘤寺裏の横地半九郎方へ斬り込んで、居合わせた松原源兵衛をその四番首にした時、先方にも備《そな》えがあって、芝源助町の神保造酒、無形一刀流の道場から、春藤幾久馬、遊佐剛七郎、鏡丹波の三剣士が夜番に頼まれて来ていたのだが、そのうち、三人では扱い切れぬと見た鏡丹波が飛び出して、芝の道場へ三羽烏の一人を迎いに走るのを認めたのが、右近の影のようにかれについて瘤寺裏へ行っていて、庭木の間に潜《ひそ》んで様子を見ていた知らずのお絃である。後をそのままに、丹波を追って急いだのだったが、中途から闇路を転じて、神田の自宅へ立ち帰り右近とお絃はどこへ行ったのだろうと考えながら独りつくねんとしていた神尾喬之助にその旨を語る。そして、喬之助が四谷をさして宙を飛ぶと同時に、お絃は、かねて右近と盟約《めいやく》を結んだ釣魚狂いの魚心堂先生をも頼《たの》み込み、二人その足で喬之助の後を追って四谷へ……。
ちょうどこの頃、万策尽きた西丸御書院番頭脇坂山城守が、源助町に神保造酒を訪ねて、喬之助事件に関し助力を乞い、神保先生はまた、喬之助妻園絵と交換にそれを承諾《しょうだく》していたが、これを立ち聞きしたのが、造酒の妻とも妾ともつかない芸妓上《げいしゃあが》りの市松お六で、思わず柳眉《りゅうび》を逆立《さかだ》てているところへ、鏡丹波が三羽烏の助剣を求めて帰って来たので、その場はそれなりに、天童利根太郎が五十七名の剣士をつれて四谷へ押し出す。横地半九郎方を襲っているのが喬之助ではなくて茨右近であろう等《など》とは脇坂山城守ゆめにも知らないから、今夜こそは間違いなく神尾喬之助を討ち取ることが出来るであろうと、大層な御機嫌でなおも造酒に今後の事を頼み込み、その忍びの訪問から帰って行く。造酒が交換に園絵のほうの事を念を押すと、村井長庵を使えば巧く遣れるだろうと思っている山城守は、大きく合点《うなず》いて胸を叩きながら、待たせてあった駕籠に乗った。
この喬之助、魚心堂、お絃の三人組と、天童利根太郎、鏡丹波を頭に源助町から押して来た五十七名とが出会ったのが、瘤寺に近い富士見の馬場、ソロソロ東が白もうという頃で、夜露の野を蹴って乱戦は朝に及んだが、源助町の勢は驚いたろう。何しろ半九郎方で暴れてるはずの神尾喬之助が、いきなり此処へ飛び出したのだから――もっとも、こっちがほんとの神尾喬之助なんだから、知っていれば別に不思議はないけれど、それに、つんつるてんの飛白《かすり》の筒《つつ》っぽに、白木綿の兵古《へこ》帯を太く巻いた大男が、茶筌《ちゃせん》あたまを振り立てて、そ
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