眠っていた。
 ハッキリ眼がさめると同時に、悪戯《いたずら》か、害心《がいしん》か、この夜ふけに、そも何やつのしわざ? と、ぷッ! 一時に怒りを発した茨右近だ。頭上にかざした手へ釣糸を捲《ま》き手繰《たぐ》って、パアッ! 起ち上った。
「誰だッ! 出て来いッ!」
 叫《さけ》ぶ。その声で眼をさましたお絃が、
「火事かい……あら厭《いや》だ。何をお前さん、ひとりで威張《いば》っているの」
 迂路《うろ》うろそこらを見廻したが、
「あ! 何だい、あれは――?」
 指さした。そこに、闇黒《やみ》の奥からノソリ、ノソリと近づいて来ている一人の人物。
 夜光を背にしてよくは見えないが、つんつるてんの紺飛白《こんがすり》に白い兵児《へこ》帯を太く巻いて、後世の英傑西郷先生の元祖みたいな風体《いでたち》だ。髪は、戦国風の太茶筌《ふとちゃせん》。釣竿を差し伸べて片手に魚籠《びく》を提《さ》げている。実もって異形《いぎょう》な大男なので。
「げッ! 何だ手前はッ!」
 頭の釣針を取ろうとするが、すっかり髪に絡みこんでいて容易に取れない。焦立《いらだ》った右近、タタタとあとへ下って、頭で糸を引いて男を引き寄せようとする。
「怒るな、怒るな」男が言った。太い、しずかな声だ。「ちょいと夜釣りと洒落《しゃれ》たのだ」
 が、右近は無言。両手を腰に[#「両手を腰に」は底本では「両手に腰を」]、グッと頭を反らして、かみの毛にひっ掛った糸でそのまま相手を引きずりよせようとした。
 ほがらかな男の笑いが、深夜の巷《まち》にひびいた。
「ウム、どうやら呑舟《どんしゅう》の大魚が掛ったようだぞ。こりゃ面白い。頭で綱引《つなび》きと来るか」
 自分も、竿を構《かま》えて、足を踏ん張る。あたまと手の綱引き……じゃアない、糸引きだ。両々相下《りょうりょうあいくだ》らない。見ていては面白いが、がっくり前へ寝た右近の髷《まげ》が、今にも脱けそうだ。どんなに痛いことだろう。つまらない我慢をしてゴッソリ丸坊主になったらどうしよう――と、お絃は一人で気を揉《も》んでいる。
 ひっ張り合いながら、会話になった。
「小僧ッ、痛くはないか」
「何をッ! 釣れるものなら、釣ってみろ」
「てエッ! 強情なッ! こうだッ」
 男は、力を罩《こ》めて竿を引く。うム! と踏みこたえた右近、大地から生《は》えたよう、磐石《ばんじゃく》のごとく身じろぎもしない。
「特製の頭だな。名は何というか」
 男が感心した。
「茨右近」
「ナニ、茨右近? 喧嘩渡世の茨右近か」
「さようでござる。して、おん身《み》は?」
「吾輩か。吾輩は魚心堂《ぎょしんどう》じゃ」
「ほウ、あの、いたるところ釣りをして歩いて巷に道を説くという、今評判の魚心堂先生でござったか」
「そうじゃ、その傑《えら》い先生の魚心堂である。どうだ、降参するかナ」
「何の、朝まででも綱引《つなびき》だッ! 来いッ」
「こいつが、此奴が――よし、やろう!」
 どっちも強情我慢の変物同士《へんぶつどうし》だ。曳《えい》ッ! うむ! 喧嘩右近と魚心堂先生、一進一退、三|更《こう》の街上に不思議な綱引きをつづけている。
 知らずのお絃は、あきれ返って見物しながら、呑気なもので、応援団だ。
 フレイフレイ右近! そんなことは言わない。
「ソラ、お前さん、しっかり!」

      六

「どうだ、定公《さだこう》、ここでちょっと休んで行こうか」
「そうですね。それがようございますよ。若旦那――これからお屋敷へ上ったって、脇坂様は名打《なう》てのけちん[#「けちん」に傍点]坊だ。お茶いっぱい飲ましてくれないにきまってますからね」
「しッ! そんなことを大きな声でいっちゃア不可《いけ》ない。どうもお前をつれて歩くと、口が悪いんで冷《ひや》ひやするよ」
「へえ、夏向きのお供でござい」
「冗談じゃアないぜ。ひょっとして、脇坂様御家中の方のお耳にでも入ったら、どうするのだ。喩《たと》えにもいう。口はわざわいの因《もと》。ちと気をつけな」
「ヘイヘイ、物いえば口びる寒し冬の風」
「ちッ、言うことが一々間違ってる。それも言おうなら、物いえば口びる寒し秋の風、とナ」
「秋よりも冬のほうが寒いや」
「戯《ふざ》けなさんな。とにかく、ここで咽喉を潤《うるお》して行こう」
「うフッ、明日は雨だい。しわんぼうの筆幸が茶店をおごるなんて――後《あと》が怖いぞ」
「何をブツブツ言ってるんだ」
「イエナニ、こっちのことで……若旦那、この腰掛けへ陣取りましょう。ここなら、表を通る別嬪《べっぴん》が一|目瞭然《もくりょうぜん》――」
「厭なやつだな、子供のくせに」
「子供だ子供だと思っているうちに――」
「定公、うすッ気味の悪い声はしまっときナ」
「若旦那、お出初《でば》なを二つ頂きましょうね。それからお口よごしには何を……」
「殴るよ。じっさいお前は老成《ませ》ているね。口を利いているのを聞くと一人前だ」
「それでいて仕事は半人前、食うほうは三人前――われながら不思議の至り……」
 市ヶ谷やきもち坂の甲良屋敷へ差しかかろうとする馬場下《ばばした》の清玄寺前、角に腰掛茶屋が出ている。
 無駄口を叩《たた》きながら、そこへはいって来たのが、下谷長者町の筆屋幸兵衛、筆幸という、その息子で幸吉。黒門町の壁辰の娘お妙に恋をして、思いの通らぬところから、甲良屋敷の脇坂山城守に訴人《そにん》をしたが、人ちがいということになって面目玉を踏み潰した生《なま》ッ白《ちろ》い若旦那だ。今日は、十五、六の小僧で減らず口のチャンピオンとでも言うべき定公を供に、もう一度脇坂様へ取り入ろうと、お贈《つか》い物を持って出かけて来たところ。
 泰平つづきで、役人は腐敗しきっている。もっとも疑獄連発《ぎごくれんぱつ》のこの頃のようなことはないが権門賄賂《けんもんわいろ》は公然の秘密だった。長崎奉行は二千両、御目附は千両という相場《そうば》が立った位で、いまこの、筆屋の幸吉が定公に担《かつ》がせて持って来ているものは、一見|膳部《ぜんぶ》のような箱だが、これは膳にして膳に非《あら》ず。なるほど箱の中には高脚《たかあし》つきの膳が入っていて、膳の上に吸物、さしみ、口取り、その他種々の材料をはじめ庖丁|俎板《まないた》まで仕込んである。花月《かげつ》の夜《よ》、雨雪風流《うせつふうりゅう》の窓《まど》にこれをひらいて、たちまち座を賑わそうというのだが、これは膳の上のはなしで、その膳の下には、いつどこで開いてもたちまち座を賑わすに足る、小判の山がうず高く積んであろうという、膳の上よりも膳の下が目的《めあて》ということは、贈るほうも贈られる方も、不言不語《いわずかたらず》、ズンと飲み込んでいるのだから、誠に重宝《ちょうほう》な品物で……。
 幸吉と定公。
 そいつを萌黄《もえぎ》の風呂敷包にしてここまで持って来て、もう脇坂様のおやしきは眼の前だからと、こうして馬場下の茶店に腰を下ろし、茶を飲む。菓子を摘《つま》む。定公なんか、
「茶腹《ちゃばら》も一とき、アアもうダブダブになっちゃった」
 というさわぎだ。
 あらたに油渡世をもはじめたについては、伊豆伍を蹴落して、御書院番頭脇坂山城守さまのお計《はか》らいで、お城の油御用を一手に引き請《う》けたいという念願。例の村井長庵をも頼み、せっせと脇坂様へ敬意を表して来たのだが、それが、このところ、あの幸吉の訴人沙汰で、ちょっと不首尾《ふしゅび》になっているので、きょうの贈り物で一気に回復しようという寸法だ。箱がだいぶ重そうなのは、筆幸、よほど張りこんで、ぎっしり山吹色が詰まっているとみえる。
 お茶をもう一ぱい、金鍔《きんつば》をもう一つというので、定公め、なかなか腰を上げないのだが、べつに急ぐこともないので、幸吉もついそのまま、のんべんだらりと茶店に根を生やしていると……めずらしい晴天だから、人出が多く、茶店はかなり混《こ》んでいる。
 女がはいって来た。
 若い綺麗な女だ。商家のお内儀《かみ》といった態《てい》で、供をつれている。
「さあさ、ちょっと休んで行きましょうね。歩くのはこれで、何でもないようで草臥《くたび》れるからねえ。お前も大変だったろう? 御苦労だったねえ」
「へい、ドドドどうも、ア、相済みません」
 喧嘩屋の身内《みうち》、どもりの勘太こと吃勘《どもかん》と来たら、名前の示すごとく猛烈な吃《ども》りなのだ。
 内儀ふうに装《つく》った知らずの姐御にくっついて、勘太も茶店へはいって来る。手に何か持っている。萠黄のふろしきに包んだ、箱のようなものである。
 何か思わくでもあるのか、スッカリ化《ば》け切《き》った知らずのお絃だ。腰掛けの間を通って、幸吉のそばへ行って腰を下ろす。勘太も続いて、となりに掛けた。同じようなふろ敷包の箱が、二つ並ぶ。
 思いがけなく、美《い》い女《おんな》が傍へ来たので、筆屋の若旦那は、もうゾクゾク心臓の高鳴《たかな》りを感じて、何とかうまくモーションをかけよう……機会を狙《ねら》っているうちに、お絃と吃勘《どもかん》はアッサリお茶を飲んで、
「お婆さん、御馳走さま。お茶代はここへ置きますよ」
 チャリンと盆へ文銭を投げて、お絃は立つ。勘太も、箱包をかかえてあとを追う。二人、いそぎ足に出て行った。
 それで気がついた幸吉、
「おい、定公、そろそろ出かけようじゃないか」
「そうですね。では、参《まい》りましょうか」
「荷物を忘れちゃいけないよ」
「この通り、シッカリ抱いていまさァ」
 毎度ありがとう。どうぞおしずかに……茶汲み婆さんの声に送られて、ふたりも、腰かけを離《はな》れた。
 やきもち坂を登る。脇坂様のお屋敷へ。

      七

「ほホゥ、筆幸から献上物《けんじょうもの》とナ」
 登城をしない日は、退屈《たいくつ》な一日だ。
 市ヶ谷やきもち坂の甲良屋敷である。
 西丸御書院番頭脇坂山城守は、ここお上《かみ》やしきの奥まった庭を、ブラブラ散歩していた。
 お力士さんのように肥ったからだに、紋服の突《つ》き袖《そで》が似合った。泉水《せんすい》のまわりを歩いているのだ。いい天気だ。金いろの水のような日光が空間《くうかん》を占めて、空は、高く蒼い。草は、みどりの色を増して来ているのだ。山城守は、それが特徴の、面のように無表情な顔を据《す》えて、さっきから、築山の横の同じところをいったり来たりしていた。
 空は晴れても、山城守は、気が重いのだった。
 気が重い――無理もない。
 ところは柳営《りゅうえい》だ。時は元旦だ。あんな事件のあったのは、山城守の責任なのだ。監督不行届《かんとくふゆきとど》きなのだ。よく切腹を仰せ付けられなかった。よく閉門謹慎《へいもんきんしん》で済んだ。が、表面はそれで済んでいるが、内実、山城守のいのちは、兇刃神尾喬之助の逮捕《たいほ》一つにかかっているのだ。つまり、早晩必ず喬之助を捕まえるからというので、切腹を延ばされているのだ。交換条件で命をつないでいるのだ。
 喬之助に繩打って、引き据えるか。それとも、自分が腹を切るか……二つに一つだ。山城守は、いても起《た》ってもいられなかった。躍起《やっき》になっていた。
 園絵と喬之助の結婚には、じぶんも口をきいた。その園絵のことで、こんな騒動になったのだ。今となって、善悪正邪《ぜんあくせいじゃ》は問題でない。自分としては、組与頭の戸部近江を首にした喬之助の首を、一刻も早く手にしさえすればいいのだ。が、その喬之助の行方《ゆくえ》である。家中の者はもとより、町方にも手を廻《まわ》して、いま、喬之助を狙《ねら》う御用の者は、江戸全市を櫛《くし》の歯のように梳《す》いているはずだ。それでも発見されない。発見されないだけならまだしも、先日はどうだ。この大警戒の真ッ直中で、大迫玄蕃と浅香慶之助と、同番の士が一夜にふたり、喬之助のために首を掻《か》かれている。何だか、他の者も順次に首級を挙げられてついには自分にまで及んで来そうに思われるのだ。
 山城守は、じぶんの生首《な
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