た茨右近が、
「おい、お絃、それじゃアおめえ、御新《ごしん》さんに、何の用事だかわからねえじゃアねえか」
「そうかい」ふり返って、「あたしゃまだ話さなかったかしら」
「何にも言やアしねえやな。だから見ナ。御新さんは狐《きつね》につままれたってエ顔つきだ。ハハハハハ」
「アレサ、そうだったかい。気の早い人だねエ」
「何を言やアがる。どっちが気が早えんだ。シッカリ申し上げな」
 女がうしろを向いて何かしきりに饒舌《しゃべ》っているから、園絵は一そう怪訝《けげん》に思って、
「どなたかそこにいらっしゃるのでございますか?」
「アイ。いまお風呂を覗《のぞ》いた人」
「あッ、あの、喬之助さまが……」ひェイッ! と愕《おどろ》くと同時に、木戸を押しあける間も焦《もど》かしく、園絵は、お絃を突きのけるように背後《うしろ》の駕籠へ駈け寄って、「喬さまッ! 喬さまッ! 喬さまはどのお駕籠に……?」

      三

 同居人の喬之助の口から、妻の園絵への思いを聞かされた喧嘩屋夫婦の右近とお絃は、粋《いき》な人間だけに察しがいい。園絵をこっそり帯屋小路の家へつれて来て、久しぶりに喬之助に会わせてやろうと、思い立つと、何でも即座《そくざ》に実行しないと気の済まない喧嘩渡世人だ。よかろう。出しぬけにつれて来て驚かしてやろうという肚《はら》、二梃駕籠を打たせて来る途中、九段下のまないた橋で、琴二郎と間違えて洒落《しゃれ》た真似をした村井長庵を、駕籠の垂《た》れから一刀を覗かせて難なく追っ払ったのち、こうしてこの築土八幡の喬之助留守宅へ、眼立たないように裏口に廻って駕籠をつけさせたのだった。
 園絵を乗せて神田へ飛び帰る時の用意に、途中一つ空駕籠を拾《ひろ》って、三梃、裏木戸まえの横町に並んで下りた。
 先方は何かと用心をしているに相違ない。こっちは見ず知らずの他人だ。正面にぶつかって、喬之助がいるから一しょに来いなどと言ったところで、ハイそれならお供をと気やすに出て来るわけはない。これは困ったことになった。ハテどうしたものであろうと、駕籠を出た右近とお絃、当惑《とうわく》顔を突き合わせていると、ちょうど湯殿のうらで、櫺子窓《れんじまど》の隙間からほのぼのと湯気《ゆげ》が逃げて誰か入浴《はい》っているようす、ポシャリ、ポシャリ、忍びやかに湯を使う音がする。そこは直感というやつで、これはテッキリ園絵がお湯《ぶう》をつかっているに相違ない。琴二郎と二人きりの家で、今ごろ湯にはいって、しかもああおとなしく湯の音を立てているのは、女の園絵にきまっている――お絃|姐御《あねご》、一計を思いついて、ポンと右近の肩を叩いた。
「だからサ、ちょいと窓から顔を見せればいいんだよ。そんなに似ているんだもの。きっと間違えて飛び出してくるよ。あとはあたしがひき請《う》けて駕籠へ乗せちまうから――だけどお前さん、あんまり長く見ていると承知しないよ」
 これが成功したのだった。
 右近の顔を喬之助と思い、ああやって走り出て来た園絵、いままた、駕籠の一つにその喬之助がいると聞かされて、狂ったようにホラホラホラと、三梃の駕籠のまわりを駈け迷いながら、
「どれでございます。どのお駕籠でございますッ、喬さまのいらっしゃるのは?」
 一つずつ手をかけて、垂れをはぐって行こうとするから、情《じょう》に打たれてボンヤリ見ていたお絃が、あわてて止めた。
「シッカリなさいよ。ここは往来じゃないか。人眼についたら、どうするつもりだえ。サ、あたしが好い所へ連れてって、ゆっくり会わして上げるからサ、悪いようにはしないよ。早くこの駕籠へお乗り!」
 ここにいる喬様に、今すぐユックリ会える……園絵ははや涙ぐんで、言われるまま駕籠へうずくまる。駕籠|舁《か》きには委細《いさい》命じてあるから、ギイと上ってスタスタスタ、急ぎ行きかけるかと思うと、なかなか出ない。
 殿《しんがり》の駕籠にいた茨右近、ヒョイと顔を出して見るてエと、知らずのお絃ちゃんが自分の駕籠へはいろうともしないで、かごに凭《もた》れてしきりにクシャンクシャン鼻をかんでいるので、
「やい、何をしてやんでエ! さっさと乗らねえか」
 低声に叱咤《しった》した。お絃ちゃんは、湿《うる》み声だ。
「やかましいやい。泣いてるんだい」
「何をッ! 手前は何も泣くこたアねえじゃアねえか」
「うるさいねえ。あたしゃ情にほだされて――こんなに旦那のことを思ってる奥さん、ちょいと、まるで眼の色が変ったよ――ねエ、それにつけても、仲よくしようねえ」
「そうだ。もソッとおいらを大事にすることだ」
「大事にしてるじゃないか。これ以上大事にしたら、お前さんの命が保《も》たないよ」
 駕籠屋の一人が口を入れた。
「テヘヘヘヘ、あっしアまだ独《ひと》り者なんだ、だいぶこてえやす、へえ」
 それには答えず、知らずのお絃が、
「ああ泣いちゃった……」
 はいこんで、バラリ垂れを下ろすと、行くぜ! あい来た、で三梃、トットと神田へ帰って来た帯屋小路――よろず喧嘩買入申候の看板に、御神燈《ごしんとう》の灯が、ゆらゆらと照り映《は》えている。

      四

 喧嘩渡世の家の壁に、長ながと貼り出してある一枚の巻紙、ズラリ十七人の番士の名が書いてある。その中の二つ、大迫玄蕃《おおせこげんば》と浅香慶之助《あさかけいのすけ》のところへ、いま二人を首にして帰って来た神尾喬之助が、墨くろぐろと抹殺線《まっさつせん》を引いて、下に、一番首二番首と書き入れを済まし、さて、このつぎの三番首は誰にしたものであろうか……まことに不気味な順番で、ひそかに候補にあげられる者こそ災難だが、喬之助が、端《はし》から名前を黙読しながら、アイツにしようかコイツにしようかと思案しているところへおもてに三梃の駕籠が止まって、その一つから園絵が下りた。
 元日以来会わずに来た、恋し恋された若夫婦である。二人のおどろき、よろこび、その後の物語、昔の作者なら、ここんところは、読む者よろしく推量あるべし……とやるところだが僕も一つ、この手を用《もち》いよう。
 ただ、これがすべて喧嘩屋夫婦の扱いと知って、喬之助は、何にもいわぬ、これだ――と掌《て》を合わせんばかりに感謝する。園絵は、はいってみると、そこに喬之助がいて、いま一緒に来た駕籠の一つからも喬之助そっくりの男が立ち出《い》でたので、ビックリして二人を見較《みくら》べている。これには何か仔細《しさい》のあることであろう、あとでゆっくり訊《き》こうと、園絵はそのまま喬之助の前にガックリ崩れて、
「…………」
 言葉はない。泣き伏した。これが西洋物だと、何か洒落たことをいいながら、人眼《ひとめ》もなく抱きつく。キッスする。いとも華《はな》やかなる場面だが、たしなみの深かった昔の日本人だから、そうは行かない。
 それでも、会いたかった見たかった……情緒纏綿《じょうちょてんめん》たる光景なので、ついポッカリ口をあけた茨右近が、自分の家だけれどはいっていいのか悪いのか、土間に立ってボンヤリ眺めていると、御意見無用、いのち不知と二行の文身《ほりもの》の読めるお絃の右手が伸びて来て、つ[#「つ」に傍点]と右近の耳を掴《つか》んだ。
「何だい。察しのわるい人だねえ。見るもんじゃアないよ。こっちへおいでよ」
 グングン引っ張るから、さすがの観化流逸剣《かんかりゅういっけん》茨右近も悲鳴を揚げて、
「ア痛タタタ! ナ、何をしやアがる。兎公《うさこう》じゃアあるめえし」
「馬鹿だよこの人は、お前さんが立って見物してるもんだから、喬さんはすっかり照れてるじゃアないか。サ、こっちへおいでよ」
 見ると、なるほど喬之助は、園絵を前に喧嘩屋のふたりをはばかってニヤニヤ笑いながら、頭を掻《か》いている。右近は気がついて、
「いやア、これア俺が悪かった。犬に食われろなんて言われねえうちに……ヤイ! お絃、そういう手前《てめえ》こそ、見物して笑ってるじゃアねえか」
「あれサ、あたしゃ御新さんを唆《け》しかけていたんだよ。ねえ御新さん、久しぶりですもの。しっかり可愛がってお貰《もら》いなさいよ」
「余計なことをいうやつだな。見ろ、園絵さんは真赤になってしまった」
「さ、こっちも二人づれ、早く出ましょう」
 お絃は、右近の耳を引ッ張って戸外《そと》へつれ出す。ピシャリあとを締めながら、
「ホホホホどうぞ御ゆっくり……」
 は、また一つ余計だった。

      五

 おもてへは出たものの、行くところはない。
 格子の外へ凭《よ》り掛った茨右近と知らずのお絃、どうも、夫婦して締め出しを喰らったような恰好で――。
「お前さん、寒くァない?」
「うん、寒くはないが、べらぼうに眠《ねむ》いや」
「困ったねえ。どっか一晩|旅籠《はたご》でもとろうか」
「なアに……」
「なあにといったって、朝までここに、立ってもいられないしサ――」
「どうにかならあ」
「呑気《のんき》だねえ。今ごろ家内《なか》の二人は……」
「馬鹿ッ! しかし、心もちは察するなあ」
「ほんとにねえ」
 つくねんと立ちながら、ポソポソ話し合っていると、春寒《はるさむ》の夜はヒッソリ更けて、犬の遠吠《とおぼえ》、按摩《あんま》の笛、夜鳴《よな》きうどんに支那蕎麦《しなそば》のチャルメラ……ナニ、そんなのアないが、とにかく、深更である。寝しずまった帯屋小路の往来を、風に吹かれて白い紙屑が走って、番太《ばんた》の金棒が、向う横町をシャラン、シャランと――。
 寒さがしみる。しゃがんでいたお絃が、ゾッと肩をすぼめて、
「ねえお前さん、こうしていると、夜中に店立《たなた》てを喰らったようで、どう見ても、あんまりいい図じゃアないね」
 ムニャムニャと茨右近が妙な返答をするから、見ると、喧嘩屋の先生、いつの間にか地べたに寝ッころがって、いい気持ちそうに白河夜船の最中《さいちゅう》とある。
「まア呆《あき》れた……」
 呆れたとは言ったが、惚れぼれと寝顔を覗き込んだお絃、自分の半纏《はんてん》をスッポリ脱いで、掛けてやりながら、ふと気がつくと、家の中の灯《あかり》が消えて、あたりは真っくらだ。
「ちッ、厭《いや》になるねえ――ちょいとお前さん、お起きなさいったら。そんなところに寝て、風邪ひくじゃないか。しようがないねえ」
 ゆすぶり起そうとすると、右近の口がモゾモゾと動いて、
「これア寝言《ねごと》だぜ」断《ことわ》っている。「なアお絃、おめえもつくづく嬉しい気性だなあ。こうやって自分達は、野良犬みてえに軒《のき》の下に夜を明かしても、好いた同士の首尾《しゅび》を計ってやる。これは善根《ぜんこん》というものだ」
「蓮根《れんこん》だか[#「蓮根《れんこん》だか」は底本では「蓮根《れんこん》だが」]何だか知らないけど、うれしい気性はお前さんさ。全体このことは、お前さんが言い出したんじゃないか」
「いンや、お前《めえ》が言い出したのだ」
 互に善根をゆずり合っている。
「あああア」お絃は欠伸《あくび》をして、「だけど蓮根てものは、寒いもんだねえ」
「蓮根ではない。善根である」
「あい。ソノ根《こん》さ」
 無駄口をきいているうちに、どっちが先ともなく眠りこけて、並んで膝を抱いたまま、壁の根に背をあずけてコクリコクリやっていると――何刻《なんどき》経ったか、ふと、しきりに頭髪《あたま》にさわるものがあるので、右近は夢中で手をやって払い退《の》けた。
 糸《いと》のようなものだ。
 払っても払っても垂れ下ってくるのだ。が、こっちは寝ぼけている。色いろに頭を動かして避《よ》けていると、やがて右近、ぎゅうと髷《まげ》の根を掴んで引き上げられるような気がして、眼がさめた。
 何か、かみの毛に引っかかっている。釣針《つりばり》らしいのだ。糸の先につり針がついて、そいつがどこからか伸びて来て、右近の結髪《かみ》に掛り、グウッと上へ持ち上げようとしている……まさに何者かが、喧嘩師茨右近先生を釣り上げようという魂胆《こんたん》!
 そばのお絃は、それこそ何も「知らず」に
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