ろうとする頃で、ふり返れば、蜂須賀中納言《はちすかちゅうなごん》の屋敷の森に、芝居めいた下弦《かげん》の月が白かった。
 あれから真っ直ぐに大通りへ出て、間もなく、九段下へさし掛かる。
 一行五人、ぶらぶら歩きである。夜道《よみち》だ。主従《しゅじゅう》という堅《かた》ッ苦しさもいつの間にか脱《と》れて、一同、気やすな心もちだった。
 黙って歩けない。
 ばか話がはずむ。
 賑《にぎ》やかな笑い声を、夜更《よふ》けの町に流して行った。
 やがて、九段下から中坂《なかざか》のほうへ曲ろうとするとき、向うにぽっちり人影が見えて来たが、夜遊びにでも出た若侍《わかざむらい》であろうと、誰も気にする者はない。
 おびえているところだから、これだけの人数で大迫玄蕃を脅《おど》かして、あとから笑いにしてやろうと、ワイワイ相談しながら歩いて行く。
 すれ違おうとした。
 と、向うから来かかった人間が、先に立ち停《ど》まったから、浅香《あさか》慶之助の一行も、何気《なにげ》なく足をとめて見守ると、
「おう、浅香ではないか――」
 という声に、ハテ誰であろう? いぶかしく思いながら、
「うむ、いかにも拙者は浅香だが、そういう尊公《そんこう》は――」
「神尾喬之助」
「ナ、何イ……神尾――」
 抜いたのは同時だったが、虚心流《きょしんりゅう》捨身《すてみ》の剣の前に、四人の供は忽《たちま》ち地に反《そ》って……身を捨ててこそ浮かぶ瀬《せ》もある喬之助の強刃《ごうじん》、白蛇《はくだ》のごとく躍《おど》って慶之助に追い迫った。――じつに二番首は、この浅香慶之助であった。
 それから数刻《すうこく》の後《のち》。
 深夜である。神田帯屋小路の喧嘩渡世、茨右近方へ帰り着いた喬之助、べつだん疲《つか》れたようすもない。右近《うこん》と知らずのお絃《げん》は、この夜ふけまでどこへ行っているのか、家には誰もいなかった。
 壁《かべ》には道場の貼出《はりだ》しのように、名を書き連《つら》ねた一枚の巻紙が貼ってあるのだ。
[#巻紙の図(fig45670_01.png)入る]
 その、大迫玄蕃と浅香慶之助のところへ、喬之助が前記の如く抹殺線《まっさつせん》を引いて、一番首二番首と書き入れをした時、おもてに、三|梃《ちょう》の駕籠《かご》が停《と》まった。

   妖説《ようせつ》逆屏風《さかさびょうぶ》

      一

 笹《ささ》が鳴《な》る。
 パラパラパラ……露《つゆ》の散《ち》る音《おと》。夕風だ。
 牛込築土《うしごめつくど》八幡の片ほとり、元西丸御書院番神尾喬之助の留守宅《るすたく》では。
 美人番付の横綱、伊豆屋のお園と謳《うた》われた喬之助妻園絵が――裸になっている。
 全裸体……。
 あわててはいけない。風呂場なのだ。いくら美人でも、お湯へはいる時は裸になることに、どうもこの時代からきまっていたようで。
 檜《ひのき》の香《か》のあたらしい浴室である。高いれんじ[#「れんじ」に傍点]窓からたそがれのうす陽《び》が射《さ》しこんで、立ちのぼる湯気の中に数条《すうじょう》の縞《しま》を織り出している。
 広い屋敷内はひっそりとして、ただ喬之助の弟|琴《こと》二郎が、裏庭で、柿《かき》の立樹《たちき》を相手に、しきりに、やッ! とウ――剣術の稽古をしている音が聞えるだけ。
 据風呂《すえぶろ》を嫁は上手《じょうず》に跨《また》ぐなり……川柳子《せんりゅうし》、うまいことを言ったもので、からだをくの字に曲げた園絵が、スルリせり[#「せり」に傍点]上がるように湯槽《ゆぶね》から抜け出て来て、ナニ、じぶん独りで見ているものはないのだが、それでも、あちこち隠すように流し場へ片膝つく。磨き立てて見せたい相手はいなくても、女の身だしなみだ。セッセとそこここ洗いにかかっている。白絹の膚《はだ》が、湯のあたたか味でポウッと桜いろに染まり、ふくよかな肉体が様々の悩ましいポーズを作り出す。
 美女入浴之図《びじょにゅうよくのず》。まことにエロチックな風景……だが、この日頃、なやみの多い彼女だ。
 喬之助様がいらしったら――思うのはこのことだけである。思わず、洗いかけていた手を休めて、ホッ! 小さな溜息になった時。
 もう一度、川柳子曰く……跫音《あしおと》のたびに湯殿で嫁しゃがみ。
 その、世にも恐るべき跫音が、ゴソリ、焚口の前でしたから、ハッ! とした園絵が、本能的に小さく屈《かが》み込むと、
「御新造さま、ぬるくァござんせんか。ちっと焚《く》べますべいか」
 あの喬之助の刃傷以来《にんじょういらい》、難を恐れて暇を取って行った召使いの中で、たったひとり残って家事の面倒を見ていてくれる若党《わかとう》忠助の声なので、園絵は安心をして、
「いいのよ。くべなくてもいいわ」
 何だかモダンガールみたいな口調だが、とにかく、当時の言葉でそんな意味のことを言う。白髪《しらが》あたまで若党とはこれいかに?――とでもいいたい老僕忠助、行ってしまった。
 あとで園絵。
 町人は町人並に、このわたしさえどこか町家へでもお嫁に行っていたら、四方八方、こんな迷惑《めいわく》は掛けなかったのであろうに。思えば、名あるお武家さまを縁者《えんじゃ》に持ちたいなどと大それた望みを起したお父つぁんやお母《っか》さんが恨《うら》めしい。しかも、こういうことになってからというものは、この上のかかりあいを恐れて、三河町《いずや》からは足踏みは愚か、フッツリ、便りさえないではないか。お父つぁんと言いお母さんといい、あんまりといえばあんまりなしうち……娘ごころは、ひたむきである。思い詰めると、お可哀そうなのは喬様おひとり、ああ思い切るまでには、よくよくのことがおありだったに相違ない。イイエ、園絵は決して、御無理とも御短慮《ごたんりょ》とも思いは致しませぬ。よく――よくあの、憎い憎い戸部近江様をお斬りなすった。それでこそわが夫《つま》、園絵は、この通り悦んでおります。でも、それもみんなわたくしから出たことと想えば、もったいないやら、空恐《そらおそ》ろしいやらで……その後、わたくしの受けました厳しいお調べや折檻《せっかん》など、あなた様の艱難辛苦《かんなんしんく》に比べれば、物の数でもござりませぬ。ただこの上は、喬之助さま、どうぞお身御大切に、いずくになりと身を潜めて長らえていて下さりませ。お互に生きてさえおりますれば、必ずやまた一つ家に寝起きして、妻よ夫よと――その時はもう、窮屈《きゅうくつ》な侍稼業をスッパリ廃《よ》して、わたくしは、あなた様と御一緒に元の町人に帰り、面白おかしく呑気《のんき》に暮らして――その、再び手を取り合って泣く日を楽しみに、喬さま、園絵は、園絵も、どんな憂き辛さにも耐えて行くつもりでございますから、あなた様も、おこころをしっかりお持ちなされて、雨、風、暑さ、寒さ、さては人の眼、十手の光り……どうぞどうぞ、お気をつけ遊ばすように――お身のうえを守らせ給えと、園絵は、夜|詣《まい》り朝詣り、コノ築土八幡さまへひたすら祈願を凝らしておりまする……。
 町人の娘とは生れたが、今は縁あって神尾家の奥様だ。美人は多く玩弄用《がんろうよう》で、内容《なかみ》のお粗末なのが通り相場になっていると聞くが、その園絵、花も果《み》もあるほんとうの美人で、美人とは美しい人と書く。人は、形の美よりも心の美である。形の美は皮一枚、心の美は千|載《ざい》を貫《つらぬ》く。女権拡張《じょけんかくちょう》も友愛結婚も時世とやらの産物で大いに結構だが、園絵は、眉を描いたり頬を彩色《さいしき》したり、ビックリ箱から今飛び出たような面をして、チャールストンとか何とか称し、大根脚で床を蹴ったりなんか妙竹林《みょうちくりん》な芸当は知らなかっただけに古くさいかも知らないけれど、考えることがシッカリしている。
 夫婦の情愛に新古《しんこ》はないはず。
 短くして破られた二ツ枕の夢――夫恋《つまこ》う鹿の細ぼそと鳴くにも似て、園絵が、こう毎日くり返す想いを、また、胸のうちに燃やしながら、
「もう上りましょう」
 交《かわ》る代《がわ》る足を上げて、鷺《さぎ》のような恰好、紅珊瑚《べにさんご》の爪さきを無心に拭いていると、
「オャ……!」
 つ[#「つ」に傍点]と窓へ眼の行ったかの女の口から、絞るような、驚愕《おどろき》の声が……。

      二

 無理もない。
 高い櫺子窓《れんじまど》である。そこへ人の顔が現われたのだ。イヤ、正確には、現れたような気がしたのだ。それはまことに、穏《おだや》かでない。人の細君が入浴しているところを覗くんだから、まさに池田亀太郎氏の先祖で亀右衛門。気丈な園絵である。いそぎ腰へ手拭を廻し、両手で乳房をかくして蹲踞《しゃが》みながら、キッ! となって窓を振りあおいだのだが、心の迷いであったか、窓を通して夕陽《ゆうひ》の色が沈みつつあるばかり――人の顔なんか、ありはしない。
 アアよかった。早く出ましょう……起ち上った園絵だ。今度はハッキリ見たのだ。見るも見ないもない。そこの窓から、良人喬之助がじぶんを見下ろしているではないか!
「あッ! あなたッ!」叫《さけ》んだ園絵だ。「何でそんなところから――ただいま参りますッ!」
 瞬間である。ほんの一|刹那《せつな》、湯殿を跳び出しながらチラと見返ると、そこにはすでに喬之助の顔も誰の顔もなかったが、確かにこの双《そう》の眼《め》で見たのだから、園絵は、気も顛倒《てんとう》している。濡れたからだを碌々《ろくろく》拭きもせず、そのまま着物を引っかけて帯を廻し、近くの縁から庭下駄を突っかけて転《まろ》ぶがごとく、その、たったいま喬さまのお顔の見えた窓の下へ来てみる――と、人影もない。
 おや!……と、見廻した。ここに立って覗《のぞ》いていなすったのだが、どこへいらしったのだろう? ハテ、無いものをあると見たのかしら? 兇変《きょうへん》があると、心が飛んで来て姿にあらわれるという。もしや……エエ縁起でもない! 自ら問いみずから打ち消して、園絵は呆然と立ちつくしている。裏木戸近くの風呂場の外だ。生《お》いしげる笹の葉から宵《よい》やみが立ち昇って、山の手の逢魔《おうま》ヶ|刻《どき》、森閑としている中に、夕餉《ゆうげ》の支度に忠助が台所で皿小鉢をうごかす音――いつまで立っていても、いない喬さまが出てくるわけはない。
 帰りましょう帰りましょう……引っ返そうとした。と、声がした。
「アノ、ちょっと御新《ごしん》さん――」
 女の声だ。ふり向く。裏木戸《うらきど》のそとに女のすがたがある。しきりに手招きしているのだ。その手招きに吸《す》い寄せられるように、園絵は二、三歩、そっちへよろめいた。
「どなた――どなたでございます。何ぞ御用でございますか」
「ホホホホ厭だよこの女《ひと》は、用がなくて神田くんだりから出てくるもんですかね」
 これが初対面の挨拶だ。見ると、黒襟の半纏をズッこけそうに引ッかけて、やけの洗《あら》い髪《がみ》、足の指にはチョッピリ鳳仙花《ほうせんか》の紅《べに》をさしていようという、チャキチャキの下町ッ児、大変者《たいへんもの》の風格だから、園絵は思わず用心をして、
「御用がおありでしたらおはいりなすって下さいまし」
「焦《じ》れッたいねえ。お前さんに出て来て貰いたい用なんでございます」知らずのお絃は、どこへ出てもこの調子だ。せっかく喬之助に会わしてやろうと、茨右近と一緒に駕籠まではずんで迎いに来た。その当の相手が、何だかじぶんを疑って二の足を踏んでるようすだから癪《しゃく》にさわってたまらない。持前の気性でポンポンやり出す。「あたしゃ知らずのお絃というやくざ[#「やくざ」に傍点]女《もの》で、まともの口をきくことなんか、名前のとおりにまったく知らずでございますのさ。オヤ、はばかりさま」
 それじゃア何のことはない。まるで喧嘩を売りに来たようなものだから、いまチョイと湯殿を覗いて来て、もう、そこの横町に待たしてある駕籠の中に帰ってい
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