なら、疾《と》うに気がついておらねばならぬ――すると、それ以来、一歩も部屋を出なかったか? 出なかった! ずうッとここにおって、謡曲《ようきょく》をさらっておった。ハテ、たった今、厠《かわや》へ立ちはしなかったかナ――お! そうだ、いま厠へ行って帰って来たところだ! うウム、さてはその間に何者か忍び入って――だが、しかし、忍び入ってと申して、一体どこから忍び入ったというのだ。戸じまりはあの通り、さっき仲間《ちゅうげん》が手分けをして見て廻ったではないか――。
 ことによると、戸締りをする以前《いぜん》から密《ひそ》かに這入っておって……うフフフ、そも何者がこの屋敷へひそかにはいっておるというのじゃ?
 大迫玄蕃は、床《とこ》の間へ行って刀を取り上げながら、自分でもおかしくなって、瞬間《しゅんかん》、ふッとせせら笑った。
 と、誰が――誰がとは何じゃ? きまっておる! あの、神尾喬之助に決まっておるではないか――玄蕃の顔に、浮かびかけた笑いが凍《こお》った。
 手の、佐平太兼政お猿畠《さるばたけ》の大刀を見る。滅多捲《めったま》きに捲き締めて、強く固く綱口《つなぐち》を結んであるのだ。急には解けそうもない。
 障子の外には、何やら生き物の呼吸づかいが、まだ犇々《ひしひし》と感じられるのである。
 急にあわて出した大迫玄蕃、カタカタカタとふるえを帯びて来た手で、その結び目を解こうと焦《あせ》っている……。
 声を揚げて、家人を呼ぼうか。
 いや、五尺の男子、ましてや旗本、しかも、腕に覚えのあるはずの大迫玄蕃ともあろうものが、まだ宵の口に、さような意気地《いくじ》のない真似《まね》は出来ぬ。
 が、何やら容易ならぬことがこの身に迫りつつある。何にしても、早《はよ》うこの刀の綱を解いてしまわねば――玄蕃は、何時の間にか、額部《ひたい》に大きな汗《あせ》の粒《つぶ》を※[#「さんずい+参」、第4水準2−78−61]《にじ》ませて、必死になっていた。
 爪が痛いばかりで、なかなか解けないのだ。
 丁度その時、玄関に当って、けたたましい大声がして――。

      四

「大変だ、大変だあッ!」驚いた時の、頭のてっぺんから突ッ走る声だ。出そうたって出る声ではないのだ。「殿様ッ! 大迫の殿様アッ! まだ生きていられますかい? どなたもいねえんですかい――」
 まだ生きていられますか、というのがハッキリ聞えて来たから、冗談《じょうだん》にしては灰《あく》が強すぎる。思わずゾクッ! と水を浴びた気の大迫玄蕃が、何事であろう? 誰であろう! 聞耳を立てながら、刀の綱をとく手を休めていると、途轍《とてつ》もない大声だから、皆に聞えたに相違ない。間もなく、下から人が廻ったとみえて、玄関口がガヤガヤし出したかと思うと、バタバタバタと廊下を駈けて来る跫音《あしおと》、それが、部屋の前にピタリ停まって、これもやっぱり、脳天から吹き出す声だ。
「との、との、殿様――」と来た。「ちょ、ちょっとお顔を――」
 用人《ようにん》の源伍兵衛《げんごべえ》老人である。さては、自分の気の迷いで、廊下には何人も立ってなんぞいなかったのだと思うと、玄蕃《げんば》、一時に胆力《たんりょく》を恢復《かいふく》して、
「何だ、騒々《そうぞう》しい。豆腐屋《とうふや》を呼びに行くんじゃあるめえし、矢鱈《やたら》に走るな」
 こんなように、好んで江戸がった崩れた言葉を使うのが、大迫玄蕃なのだ。さくい[#「さくい」に傍点]お殿様てエところを狙《ねら》ってるわけで。
 ところが、用人源伍兵衛の語調《ごちょう》たるや、はなはだ尋常でない。
「豆腐屋どころの騒ぎではござりませぬぞ」と、障子を引きあけて、それこそ豆腐のように白くなった顔を覗《のぞ》かせ、「あァ、殿様……まだ生きていてよかった。祝着至極《しゅうちゃくしごく》に存――」
「黙れッ! ただいま玄関においても、余の生命を質《たず》ぬる声が致したようだが、今また、そのほうまで、まだ生きておってよかったと申す。まだまだ三十年や四十年は生きる心算《つもり》でおる拙者、さような言を聞くとは実もって心外であるぞ。第一、この通りピンピンしておる者が、そうコロコロ死んでたまるかッ」
「御意《ぎょい》にございます。なれど、そういう張紙《はりがみ》でございましたから――」
「張紙? 張紙とは、何の張紙か」
「はい。その、おいのち頂戴、只今参上と申す――」
「ナニ? 其方《そち》の申すことはサッパリ判らん」
「でございますから、一寸お玄関先までお越しを願います。一寸、殿様、ちょっと、まア、お腰をお上げ下すって――」
「それは、次第に依っては、出て見んこともないが、一体いま玄関で我鳴《がな》り立ておったのは、どこの何やつじゃ?」
「麹町平河町の町医長庵めにござりまする」
「何と? 長庵が参った。きゃつまた、何ぞ悪だくみをしおって、このわしに、一泡ふかせようの魂胆《こんたん》でがなあろう。ウフフ、誰がその手に乗るものか。ドレ、ひとつ見てやれ」
 お城へ出ては万年平番士だが、それでも二千石のお旗本、玄蕃、家では相当に威張っている。
 綱《つな》まきの刀をその儘にして、源伍兵衛をしりへに、肥《ふと》り気味の身体を玄関《げんかん》へ運んだ。
「おう、長庵か。よく来た。ちょうど羽衣を唸《うな》ってナ、相手のほしかったところである。上れ」
 敷台《しきだい》に立ちはだかって戸外《おもて》へ呶鳴《どな》った玄蕃、三ッ引の紋を置いた黒|羽二重《はぶたえ》を着流し、茶博多《ちゃはかた》を下目に結んで、大柄な赭黒《あかぐろ》い顔と言い、身体がたっぷりしてるから、なかなかどうして、貫禄《かんろく》のある立派な殿様ぶりだ。

      五

 長庵は、口もきけない様子。宗匠頭巾《そうしょうずきん》を片手に握り締めて、しきりに坊主頭を振り立てながら、懸命に手招《てまね》ぎする恰好が、どうも尋常でない。まんざらいつもの悪ふざけとも思えないから、不審《ふしん》を打った大迫玄蕃が、
「何だ、そこまで出て来いというのか。何だ一体」
 渋々《しぶしぶ》履物《はきもの》を突っかけて玄関を出た。見ると、屋敷の者が四、五人、手に手に提灯《ちょうちん》を持って、ポカンと口を開け、ひどく感心したように玄関の戸の表側《おもてがわ》を見上げている。
「殿様、あれを――」
 長庵が指さした。下郎の一人が、手の提灯を高だかとさし上げる。
 何だ――と、眼を遣った大迫玄蕃、しずかに読み出したのだが、途中から声が消えた。
「なに、お命頂戴、ただいま参――と。ふウム」動揺《どうよう》した顔がさッと長庵をふり返って、「これ、長庵、悪戯《あくぎ》にもほどがあるぞ。仮りにも、命を貰うとは何だ。ヤイ、命を貰うとは何だッ」
「へッ?」顔突き出した長庵、「すると、何でございますか。手前がこの紙を張って置いて、人|騒《さわ》がせに喚《わめ》き立てたとおっしゃるので――? 聞えません。殿様、そいつア聞えません。殿様方のお屋敷はお城も同然、お玄関と申せば大手先、何ぼ長庵めはしが[#「しが」に傍点]ない町医風情とは申せ、それだけの儀は心得ておりまする。その大手へ、事もあろうにお命が所望などと、何でその様な――」
 長庵が、珍しく真気に反駁《はんばく》して、
「おやしきへ参って、この貼札《はりふだ》を見、思わず声を揚げたのでございます」
 只今参上……と、もう一度読み直した玄蕃、うむ! さてはおのれ!――気がついたのは、今の刀の件だ。これはこうしてはおられぬ。手慣《てな》れたる強刀《ごうとう》、何はともあれ、綱を去って鯉口《こいぐち》押し拡げておかねば――あたふた家の中へ引っ返しかけたが、万一の場合を思ったか、
「仁平《にへい》!」仲間の一人を呼んで、「雉子橋御門《きじばしごもん》、砲筒御蔵前《ほうづつおくらまえ》の浅香慶之助殿の屋敷へ急使じゃ。慶之助殿に、四、五の若党を引きつれ、直ちにおいで下さるよう……一刻を争う場合、大迫がお待ち致しおると申し伝えろ。よいかッ。宙を飛んで行けヨ」
 言葉すくなになった。それから、茫然《ぼうぜん》としている一同に、
「風呂場、不浄《ふじょう》、水口、縁先等、いま一度、戸締りを見ろ。掛金《かけがね》、棧《さん》、その他に異常なきやを確めるのだ。それが済んだら、各人、剣を執ってわしの座敷へ集れ、酒の支度をしてナ、今夜は徹宵痛飲《てっしょうつういん》、無礼講に語り且つ呑んで暁方《あけがた》を待とう」
 何だか物騒な下知《げち》だが、呑《の》めると聞いてよろこんだのは家来達だ。それぞれ手分けして、言いつけられた用に散らばって行く。
「長庵、参れ」
 はいりかけた玄蕃が、ふり返って呼んだ。が、長庵はすっかり恐縮していて、
「イヤナニ、こちらで結構でございます」
「馬鹿ッ! そこは戸外《こがい》ではないか」
「はい。外のほうが安全で、ピカリッ抜いたッと来りゃア一|目散《もくさん》。古語《こご》にも申します。君子《くんし》危きに近よらず――」
「何を愚図《ぐず》愚図申しおる」
「殿様、相手は、あの神尾喬之助で――?」
「なあに、彼ごとき――」
 気が急く。刀の始末をせねば――。
「長庵、あとをよく閉めて参れ」
 そのまま、独り家へ上った大迫玄蕃、スタスタと元の座敷へ帰って来て、サラリ、障子を引いて一歩踏み入ったかと思うと、――流石《さすが》は武士、低い声だった。
「ヤヤッ! 誰だッ?……」

      六

 いつの間にどこからはいり込んだのか。
 座敷の床の間に腰かけて、ニタリニタリ笑っている神尾喬之助――。
 肩に継布《つぎ》の当った袷《あわせ》一枚に白木《しろき》の三|尺《じゃく》、そろばん絞《しぼ》りの紺手拭いで頬かむりをしている。暫らくの間に巷《ちまた》の埃《ほこり》によごれ切って、侍《さむらい》とも無頼漢《ならずもの》とも知れない、まことに異形《いぎょう》な風俗だ。長い刀《やつ》を一本ぶっ込んだまま、玄蕃を見上げて、相変らず美しい顔を笑わせている。ほとんど無心に見えるのだ。
 たださえギョッ! とした玄蕃だ。それが一層、この喬之助の放心したような態度には、言い知れぬ不気味《ぶきみ》なものが感じられて、しばらくは口もきけなかったが、やっとのことで、
「ヨ、よく来たナ、苦労したろう。エ? 苦労したでござろう。察する。察する。な、な、元通り気易《きやす》に願おう」
 刀を取ろうにも、刀は、喬之助が尻《しり》の下に敷いているのみか、まだ綱が捲《ま》いてあるのだから、たとい手にあっても、どうすることも出来ぬ。と言って、部屋を出ようとしたり、声を出そうとすれば、今にも喬之助の手に白刃《はくじん》が閃《ひら》めきそうに思われるのだ。玄蕃は、素手《すで》である。すっかり参ってしまって、俄《にわ》かに思いついて友達めかして懐しそうに出たのだ。そのうちには、言いつけて置いたとおり、屋敷の者も集まって来るであろうし、またあの、助勢《じょせい》を頼んでやった浅香氏も、駈けつけてくることであろう。それまでは、何事も穏《おだや》かに、おだやかに、飽《あ》くまでも下手《したで》に出て、この、一度血を見た若い獣《けもの》のごとき神尾喬之助を、何とかあしらって置かねばならぬ……と、思ったが、あぶない。傍《そば》へは寄れぬ。で、遠くから、うつろな笑いをつづけて、こうなると、万年平番士《まんねんひらばんし》も才が必要だ。柄《がら》になく、愛嬌《あいきょう》たっぷりに言ってみた。
「あはははは、神尾うじ、なア、済んだことは、済んだことではないか――ウウ、今ではナ、却って、わしら一同、貴殿《きでん》に同情を寄せておるのじゃ。いやまったく、貴殿が勘忍袋《かんにんぶくろ》の緒《お》を切られたのも、無理はござらぬて。今にして思えば、かの戸部近江と申すやつ、実にどうも悪辣《あくらつ》なやつであったな。よく思い切って斬りなすったよ。みんな、その、貴殿に感謝しておる訳さ。で、今日も番士一統|寄合《よりあ》いを開いてナ、連名の上、貴殿の
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