っくり[#「そっくり」に傍点]な男が一つ家に住んでいるんでは、まるで良人《おっと》が二人いるようなもので、知らずのお絃が困りはしないかということになるんだが、そこはよくしたもので、幾ら似ているといったところで、べつの人間には相違ないのだから、ちょっとした顔つき、身体の態度《こなし》で、お絃には容易に区別がついて、良人と間違えるなどという、そんなような心配は、まずないのである。
 喬之助は、右近とお絃のまえに、ああして戸部近江之介を斬《き》らなければならないことに立ち到った経過、いま全心身を挙げて一|復讐魔《ふくしゅうま》と化し、残余《ざんよ》の十七の生首《なまくび》を狙《ねら》っている自分の決心――それらを、細大《さいだい》洩《も》らさず物語って、
「唯《ただ》一つ気になりますことは、潜行以来《せんこういらい》、築土《つくど》八幡の拙宅へ立ち寄ることもならず――妻の園絵と弟琴二郎まで召し捕られ、拙者の居どころを吐《は》かせようと、きつい詮議を蒙《こうむ》っておるとのこと。もはや赦《ゆる》されて家へ戻ったことでござろうが、それを思えば、お察《さっ》し下され、右近殿。喬之助、断腸《だんちょう》の思いでござる。妻にも会えば色いろと話もあるものをと、ま、これは愚痴じゃ。つい愚痴《ぐち》が出ました。いや、お笑い下さい」
 と聞いた、右近とお絃である。
 茨右近と知らずのお絃――喧嘩は元より、三度の飯より好きなのだ。ことに多勢に無勢、公儀を向うに廻して逃げまわっている喬之助だ。しかも、これから十七の首を順々に落して廻るのだという。そう聞いただけで、持前の侠気《おとこぎ》と喧嘩好きから、この喧嘩屋の夫婦、一生涯の協力を約するのは当然で、ここに、顔形から剣を取っての腕まえまで、いずれも兄《けい》たりがたく弟《てい》たりがたい神尾喬之助がふたり、喧嘩渡世の看板に隠れ、知らずのお絃の嬌笑《きょうしょう》と胆《きも》ッ玉《たま》を仲に、巷《ちまた》の雑踏《ざっとう》から剣眼《けんがん》を光らせて、随時随所に十七人の生命を狙《ねら》うことになった。
 神尾喬之助は、虚心流のつかい手。
 茨右近は、観化流の海内無《かいだいむ》二|剣《けん》。
 知らずのお絃は――お絃流の、なに、そんなものはないが、とにかく、喧嘩の真中《まんなか》へ割り込んで、婉《えん》然にっこり[#「にっこり」に傍点]名たんかを切ろうという物凄《ものすご》い姐御《あねご》。
 こう三|拍子《びょうし》揃ったうえに、喬之助と右近、てんで見分けがつかないというのだから、まことに紛《まぎ》らわしい話で、いのちを狙われる十七人の身になってみると、それは、あんまりありがたい同盟ではなかったろう。
 さて、喬之助の口から、妻の園絵への思いを聞かされた、茨右近と知らずのお絃は、粋《いき》な人間だけに、察しがいい。喬之助が、いま自分の家にいることを知らせて安心もさせ、また、次第によっては、園絵をこっそり帯屋小路の家へつれて来て、久しぶりに喬之助に会わせてやろうと、思い立つと、即座《そくざ》に何でも実行しないと気の済まない喧嘩屋夫婦である。
 出しぬけに園絵をつれて来て、驚かしてやろうという肚《はら》だから、喬之助には黙って、ふたりで出かけた。
 駕籠《かご》で出かける。
 二梃の駕籠をつらねて、帯屋小路の家を出たのが、ちょうど夕方だ。江戸の入陽《いりひ》は、大都会の塵埃《じんあい》に照り映えて、茜《あかね》いろがむらさきに見える。鳶《とび》にでも追われているのであろう、空一めんに烏のむれが、高く低く群れ飛んでいた。
 九段下へ出ようとして、俎《まないた》橋へさしかかる。あの辺は、中どころの武家やしきが並んでいて、塀《へい》うちから往来へ突き出ている枝のために、昼でも暗いのである。ましてやたそがれ刻《どき》、早や、清水のような闇黒《やみ》があたりを罩《こ》めはじめて、人通りはない。
 先をいくお絃の駕籠《かご》が、つと路傍《みちばた》に下ろされた。前棒《さきぼう》の駕籠屋の草鞋《わらじ》がゆるんだから、ちょっとここで締め直して行きたいというのである。棒鼻《ぼうはな》が支えて、右近の駕籠もつづいて停《と》まったから、垂《た》れをはぐって顔を出した右近が、
「何だ、何だ、どうしたんだ」
「はい。ちょっくら草鞋《わらじ》を締め直させていただきやす」
「チェッ、だらしのねえ野郎《やろう》じゃアねえか」
「恐れ入りやす」

      六

「なア幸吉さん、お前さんがあんなこと言って、脇坂様のお屋敷へ駈《か》け込んだりするものだから、殿様もすっかり真《ま》に受けて、さっそく八丁堀へお手配《てはい》なすって、多分の御人数を繰り出してみると、あれアお前さん、他人の空似《そらに》で、神田帯屋小路の喧嘩渡世、茨右近てえ浪人だったてえじゃアないか。だから、滅多なことを言ってくるもんじゃアないよ。かかりあいで仲に立った私も、こんなに困ったことはありアしない。おかげで当分、何か埋合《うめあ》わせの功名をするまでは、この長庵まで、お屋敷へ顔出しが出来なくなってしまったじゃアないか。これからあんな出鱈目《でたらめ》な口をきくのは止して貰おう」
 今日は下谷長者町の筆幸《ふでこう》へ出かけて行って、そっと息子の幸吉にだけ会い、こういって散々《さんざん》怒《おこ》り散らした村井長庵だ。そんな筈はないがなア。たしかにあれは神尾喬之助で、壁辰の父娘《おやこ》のあいだに、こんな話もあったのを聞いたのだ、という幸吉の陳辯《ちんべん》には耳をも籍《か》さず、
「とにかく、今後は気をつけて貰いましょう」
 と、プリプリして筆幸の店を立ち出でた村井長庵は、ちょうどその時、お絃、右近の喧嘩屋一行の駕籠と同じ途を、麹《こうじ》町平河町の自宅へ帰路《きろ》についていた。
 この村井長庵。
 今度筆屋が、筆紙類のみならず、ひろく油渡世《あぶらとせい》のほうにまで商売の手を伸ばすにつけては、いま、お城のそのほうの御用を一手に引き受けて来た神田三河町の伊豆屋伍兵衛が、婿の神尾喬之助の一件で失敗《しくじ》っている時だから、この機を利用し、御書院番頭の脇坂山城守を通して頼みこめば、必ず伊豆伍を蹴《け》落し、伊豆伍に代ってお城の油御用を仰せつかることが出来るというので、長庵は、筆屋幸兵衛に頼まれて、脇坂山城守へ、言わば賄賂《わいろ》の橋わたしをしているのである。
 筆幸は、千代田の御書院番へ筆紙墨の類を入れて来て、山城守とはお近づきに願っている。かれは、伊豆伍と同じ、越後《えちご》の柏崎《かしわざき》出の商人で、同郷なればこそ一層、昔から伊豆伍と筆幸は、激しい出世競争の相手だったのだ。その伊豆伍を倒す絶好の機会である。ことに、山城守は、おのが部下の随《ずい》一を斬って逃げて、その後も、自分を愚弄《ぐろう》するがごとき神尾喬之助の態度に、躍起《やっき》となっている。この騒動《そうどう》の原因は、すべて喬之助妻園絵こと伊豆屋のお園から出ているのだから、伊豆屋をも快《こころよ》く思っていないことは勿論である。そこへ、山城守には覚えめでたい長庵が間に立っていてくれるのだから、この話はもう成り立ったも同然だと、筆屋幸兵衛は、明日にもお城からお呼び出しが来て、お油の御用一切をあらためて申し付かることであろうと、毎日こころ待ちにしているのだが――。
 鼻薬《はなぐすり》として筆幸から山城守へ届けられた金は、途中、長庵の手で半分くすね[#「くすね」に傍点]られて、肝腎《かんじん》の山城守のふところへは、半金しかはいっていないのだから、山城守は内心、筆屋はけち[#「けち」に傍点]なやつだと思っている。おまけに今度は、幸吉の訴人《そにん》の件で、山城守は八丁堀へ顔向けが出来なくなったから、どうも筆屋は怪《け》しからぬという印象《いんしょう》を与えて、この話も、筆屋が楽観しているほどは、スラスラと運びそうもないのである。
 あまり長庵が、筆幸のことを五月蠅《うるさ》く頼み込むので――もっとも長庵としては、このはなしが成り立てば、いずれ筆屋から、たんまりお礼を貰う約束があるからだが――山城守は交換的《こうかんてき》に、長庵じしんに、一つの仕事を命じたのだった。
 それがうまくいったら、筆屋の油御用のほうも、奔走《ほんそう》して纏《まと》めてやろう――そうは言わないが、いわなくても解っている。山城守と長庵のあいだの、言外《げんがい》の交換条件であった。
 それは、喬之助の弟琴二郎をおびき出して、責めるなり欺《だま》すなり、そこらは長庵の手腕《うで》だが、とにかく何とかして、兄喬之助の潜伏《せんぷく》個所を吐き出させること。それだった。

      七

 あっさりお受けして、御前を退《さが》った長庵だったが、考えてみると、そんなことで真面目《まじめ》に働くことはない。根が荒っぽい大悪党の長庵である。機を見て、その琴二郎を引き出し、スッパリ殺してしまえば、それでいいのだ。責めているうちに、意気地《いくじ》のないやつで、落ちてしまいましたと言えば、山城守のほうは済むのである。第一、琴二郎なんかという青二才が生きているから、自分が、こんな厄介《やっかい》な用事を言いつかったりする。殺してしまえば、それきりなのだ。そうだ、琴二郎を殺したうえで、あれほどお城の番士たちに騒がれて、こんな事件を起したほどの、美人番付の横綱、喬之助の妻園絵、いや、伊豆屋のお園である。琴二郎さえ亡くしてしまえば、良人《おっと》の喬之助は、行方《ゆくえ》不明のお尋ね者で、うっかり出て来られないのだから、何とかして、一度でも園絵をわが有《もの》にしてみたいものだと、ひどいやつがあったもので、村井長庵、飛んでもない野望《やぼう》を抱《いだ》きはじめているのだった。
 で、きょうも、筆幸の店からの帰りみち、これから真っ直ぐに築土《つくど》八|幡《まん》へ廻って、何か口実を作って、琴二郎に会ってみようか――それとも、もうすこし日和《ひより》を見ようか――坊主頭を頭巾《ずきん》に包んで、うす菊石《あばた》のある大柄な顔をうつむかせた長庵、十|徳《とく》の袖に両手を呑んで、ブラリ、ブラリ、思案投げ首というとしおらしいが、考えこんで来かかったのが、九段下のまないた橋だ。
 人声がするので、フと顔を上げた。駕籠《かご》が二|梃《ちょう》、夕やみのなかにとまっている。と、その時、後の駕籠の垂れをはぐって覗《のぞ》いていた武士《さむらい》の顔!
 おや! と、長庵は、すこし離れたところで、眼をこすった。長庵は、神尾喬之助の顔は、知らないのである。が、当節《とうせつ》評判の人物だから、話に聞いて、大体の想像はつく。ハテナ、喬之助ではないかナ――と思った瞬間《しゅんかん》、長庵はすぐ思い返した。いや、お尋ね者の喬之助が、今頃こんなところを駕籠で通るわけはない。しかし、話に聞いた人相とあんなに似ているところを見ると、これは、ことによると、弟の琴二郎ではないかしら? そう思って、前の駕籠をすかして見ると、派手な女の着物が隙間《すきま》から見えるのである。長庵は、胸に問い、胸に答えて、ウム! とひとりうなずいた。琴二郎に園絵――それに相違はねえのだ――。立ち停《ど》まって、駕籠《かご》の出るのを待った。やがて、駕籠は再び地を離《はな》れて、タッ、タッ、タッといきかかる。そこを、追いついた長庵、声を投げた。
「もし、琴二郎さまではございませんか。その後のお駕籠《かご》は、琴二郎さまではござんせんか」
 と、すぐ、うしろの駕籠から、しずかな声が答えた。
「はい、琴二郎でござる。そういうあなたはどなたで――?」
 ちょっと駕籠舁《かごか》きが足をゆるめて、駕籠が停まりかけた。そこを、長庵は狙っていたのだ。医者とは言え、あぶれ者の長庵のことだから、九寸五分ぐらいは何時《いつ》だって呑んでいる。それが、闇黒《やみ》に、魚鱗《ぎょりん》のごとく閃めいて走った。同時に、長庵、凄《すご》い声でうめいていた。
「面倒くせえや! 琴二郎、往生しろ!」
 
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