。が、この茨右近は、あの、元日に殿中において戸部近江之介の首を打ち取り、それを御書院詰所の窓から抛りこんで逐電《ちくでん》して以来、いま復讐魔《ふくしゅうま》と化して、下谷黒門町の壁辰の許《もと》に逃げこんでいる神尾喬之助――かれに、似たといっても瓜ふたつ、そっくりなのである。
 西丸御書院番の神尾喬之助は、江戸一の、いや、ことによると日本一の美男であろう――というので、そのために、娘のお園より先に、伊豆伍夫婦が惚《ほ》れこんで、似合いの夫婦だ、内裏雛《だいりびな》だと、うつくしいものを二つ並べる興味に、まず親達のほうが騒ぎ出した、と前にいった。
 また、その喬之助が、七日のあいだ身をひそめたのち、七草《ななくさ》の日に、職人すがたに変装して、壁辰の家を訪《おとの》うたとき、いつものように手を拭きふき台所から出て行った娘のお妙は、その男のあまりの綺麗《きれい》に、もうすこしでおどろきの声を揚げるところであった。何しに役者が来たのだろうと思った。いや、三|座《ざ》の役者衆《やくしゃしゅう》にも、あんなのはちょっとあるまい――そう思った。父の壁辰でさえ、筆屋幸兵衛方の棟上《むねあ》げから帰
前へ 次へ
全308ページ中94ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング