ないが、
「マ、そ、その、人斬庖丁《ひときりぼうちょう》という物騒《ぶっそう》なものを納めなされ。そして、そして、何なりと、ゆっくり話を承《うけたま》わろうではござらぬか」
喬之助は、春の野に蝶を追うような様子で、フラフラと泳《およ》ぐように、前へ出て来た。パラリ、結び目の解けた手拭の端《はし》を口にくわえて、やはり、右手《めて》にはだらりと抜刀《ぬきみ》を提《さ》げている。虚《うつ》ろな表情《かお》だ。口走るように、言った。
「首をくれ! よウ、その首をくれエ!」
ぎょッ! とすると玄蕃、思わず自分の首筋《くびすじ》へ手をやった。が、よく見る迄もなく、これはいよいよ気狂いである。神尾喬之助は、公儀《こうぎ》の眼を潜《くぐ》って逃げ隠《かく》れているうちに、心労《しんろう》のあまり、気が狂《ふ》れたのだ。と、思ったから、きちがいなら、きちがいで扱いようがある。もう何も怖るる必要はない。ただ、相手に白刃《はくじん》があることだが、何とか欺《だま》して取り上げる工夫《くふう》はないかしら?――気違いに刃物、これほど危いものはない。待てよ。いきなり横あいからでも組み付いて――と、玄蕃、隙
前へ
次へ
全308ページ中144ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング