の膝を軽く叩いて、手拍子《てびょうし》である。
 ――われはこのあたりにすむぎょふにてそうろう。
 謡曲《ようきょく》羽衣《はごろも》の一節、柄《がら》になく風流なところのある男で、大迫玄蕃が、余念なくおさらいに耽《ふけ》っていると、夜は戌《いぬ》の上刻《じょうこく》、五ツどき、今でいう午後八時だ。風が出たとみえて、庭の立樹《たちき》がゴウッ――潮騒《しおざい》のように鳴り渡って、古い家である、頭のうえで、家棟《やむね》の震動《しんどう》がむせび泣くように聞えてくる。それが、おのが口ずさむ謡《うた》いの声を消してしまいそうだから、玄蕃が、一段と声を高めて……これなるまつにうつくしきころもかかれり、とやった時!
 ミシ! またしても障子の外部《そと》の縁側《えんがわ》に当って、何やら重い物が板を踏《ふ》む音。
 大迫玄蕃、決して臆病《おくびょう》な男ではない。が、思わず、声を呑《の》んで、白けた眼が、うしろざまに床の間を顧《かえり》みた。そこに鹿の角の刀|架《か》けに二口の豪刀、大迫玄蕃が自慢の差料《さしりょう》で、相州《そうしゅう》お猿畠《さるばたけ》の住人、お猿畠の佐平太兼政が火と水
前へ 次へ
全308ページ中124ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング