や鼻を詰《つ》まらせていた。が、ふたたび戸の向うへ、
「どうですい神尾さま、お聞きになって下せえますか」
「――――」
 喬之助は答えない。考えてでもいるのか――いや、これも、こみ[#「こみ」に傍点]上げて来る涙を、飲み込もうと努力しているらしいのである。
 戸の両側に、湿《しめ》やかな沈黙《ちんもく》がつづいた。
 やがて、喬之助の低声《こごえ》が聞えた。
「厭《いや》だ。厭でござる」
 壁辰は、がらり、調子が変った。
「不承知――と言うんだな」
「種々御忠言は深謝《しんしゃ》仕《つかまつ》るが、拙者には、いま申したような用がござる。妻や弟の難儀《なんぎ》なぞ、致し方ないと諦めるばかりだ」
「そうか。これだけ言ってもわからねえのか。よし! なら、仕方がねえ! たとい、あっし一人がここで眼をつぶって、お前《めえ》を出してやったところで、そのシャッ面《つら》を眼当てに、いま江戸中の岡っ引きが、眼を皿のようにして歩き廻っているんだ。ここを一歩出るが早《はえ》えか、いずれは他《ほか》の者に感づかれて、御用の声を聞くにきまってる――それに、私《わたくし》の情はとにかく、おめえはお尋ね者、あっしは目明し、それを落してやったとあっちゃあ、お上に対《てえ》して、あっしの一|分《ぶん》が立たねえのだ。おまけに、これから十七人の命を取ろうとしているお前だ。聞いた以上は尚さら、おれが知らぬ顔をしようとしても、この十手が承服《しょうふく》しねえのだッ!――神尾喬之助! 御用だッ!」
 言い終るや、ぱッ! と杉戸を蹴倒《けたお》した。と見る。そこに、喬之助が立っている。顔いろ一つ変えずに、鼻と鼻がぶつからんばかりに、ぬッくと立ちはだかっているのだ。
「御用!」
 振りかざした自慢の十手、ひゅうっ! と風を切って喬之助の肩へ――落ちんとして、横に滑《すべ》った。喬之助が体《たい》をかわしたのだ。
「待てッ! では、飽くまで捕ろうというのかッ」
「もう問答は無用だ。この十手は、壁辰という左官屋の手にあるんじゃアねえ。お上の御法《ごほう》だ。神妙にしろッ!」
 再び、朱総《しゅぶさ》をしごきざま、宙《ちゅう》鳴りして来る江府《こうふ》一|番《ばん》壁辰の十手だ。喬之助は、この場合、血を好まなかった。が、こうなってはもう止むを得ない。裸身《はだか》のまま袂《たもと》に潜《ひそ》ませていた河内太郎蛇丸《かわちたろうじゃまる》の短剣だ。そいつが、光線のように斜《ななめ》に走った。蛇丸《じゃまる》――という名のとおりに、生き物のごとく自ら発して、遮《しゃ》二|無《む》二に襲いかかってくる壁辰の脇腹《わきばら》を、下から、柄《つか》まで肉に喰い込んで突き――上げたと見えた秒間、その紙一枚のような瞬刻《しゅんこく》だった。
 ほらほらと椿《つばき》の花が咲いたように、剣と十手の二人のあいだへ、お妙が、身を投げ出して割り込んで来たのだった。
「ま、待って下さいッ! お父《とっ》つぁん、待って! 待って!」
「ええッ! そこ退《の》けッ! 娘ッ子の出る幕じゃアねえ! ケ、怪我《けが》しねえうちにすっ込んでろ!」
「いいえ、引っこんではいられません!」と、平常《ふだん》のお妙とはまるで別人、彼女はその場に坐り込んで、あっという間に父壁辰の脚《あし》に纏《まつわ》り付いた。
「おとっつぁん! 後生ですッ! 助けて上げて下さいッ!」
「な、何だと! これ、退《ど》け、退《ど》け! ええッ、退《ど》かねえかッ」
「いいえ退きません! 死んでも退きません!」
「何を言やアがる! これお妙、汝《われ》ア気でも違ったか」
「気が違っても何でも、この人はわたしの、好い人ですもの。わたしは、さっき一眼見た時から――」

      七

 裏口に、人影が動いた。それは、何気なく訪れて来たものだったが、何やら内部《なか》に、物さわがしい人の動きがあるので、かれは、先刻《さっき》からそこに、そうやって水口に耳を押し当てて、一伍一什《いちぶしじゅう》を立ち聴《ぎ》きしていたのだった。
 いまその、神尾喬之助に恋ごころを寄せている――というお妙の言葉を聞くと、壁辰も無言、喬之助も無言――不意に落ちたひっそり[#「ひっそり」に傍点]した空気のなかで、裏の人影は一そう戸に貼《は》りついて、聞耳を立てた。
 この殺気《さっき》の場面に、恋の一こと――それは、降り積む雪に熱湯を注いだも同然で、一瞬、ほのぼのとした煙を上げて、この場の緊張《きんちょう》をやわらげ、冷気に一抹のあたたかみを与える効果はあったが、お捕物の最中に、娘の口から、その当のおたずね者への恋の告白《こくはく》を聞こうとは!――壁辰は、悪夢をふるい落とそうとでもするかのように、ブルルと身ぶるいをして、それでも、声は、父一人《おやひとり》娘《
前へ 次へ
全77ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング