三郎殿ですか。どうしてわかります?」
「奥の床の間の前に首が飾《かざ》ってありますもの」
 それだけ聞くと、廊下を踏み鳴らして、弟子達はみんな一人残らず奥へ駈《か》け込んで行く。
 玄関口を飛び出したお六と長庵、妙見の死体に躓《つまず》いて胆を冷やしながら、
「さあ、長庵さん。この間に逃げるんだよ。しっかりおしよ」
「お六坊、暫らくだったなア。こんなところに巣《す》ウ食《く》っていようたあお釈迦さまでも――」
「何を言っているんだよ。捕まらないうちに、麹町とかのお前の穴まで逃亡《ずら》かろうじゃアないか。わたしも、あんな呑んべえには飽きあきして、先刻《さっき》もさっき、フッとお前さんのことを思い出して憂鬱《ゆううつ》になっていたところさ」
 ユーウツなんてそんな蒼白いことは言わない。グイとお尻を端折《はしょ》ったお六。長庵とつれ立ってスタスタ、旦那の造酒を置いてきぼりにして逐電《ちくでん》する。
 暗黒の街路《まち》。歩きながらの会話。
「お六、飛んだ道行《みちゆ》きだなア」
「あいサ。粋《いき》な糸《いと》の欲《ほ》しい幕《まく》だけれど、あんまりパッとした着付けじゃアないね」
「しかし、あの、酒を持って顔を出したのがお前《めえ》だったのに、おいらも愕いたよ」
「あたしこそビックリしたよ――別れて何年になるかしら」
「まア、そんな話は後だ。だが待てよ、どうせあの娘の一件で、神保のほうから脇坂の殿様へ強《きつ》い掛合《かけあ》いが行くに相違ねえ。こうしてインチキが露《ば》れたからにゃア、おいらも安閑としてはいられねえのだ。ナニ、そのほか何やかやと、ちっとばかりヤバい身体だ。こいつア余燼《ほとぼり》が冷めるまで、当分江戸を売るほうが上分別かも知れねえ」
 平河町の自宅へは立ち寄らずに、ああして数年前駿州江尻在大平村から一緒に上京して以来音信不通になっていたこのお六とともに、いずくともなく長い草鞋《わらじ》をはいてしまった。
 あとから又平河町の家へ舞い戻って、例の「村井長庵」なる事件を起して処刑《しょけい》されるに到ったのは、数年後のことである。

      四

 釣竿を肩にブラリと立ち現れた魚心堂へ、神保造酒は不思議そうな眼を凝らして、
「貴殿はどなたかな?」
「わしか。わしは釣りの神様じゃ」
 珍妙な応答をしている。
「ははア、釣りの神様。その釣りの神様がまた何しにここへ?……その十番首は貴殿のしわざか」
「さよう。ちょっと捌《さば》いて首に致した。どうせ喬之助どのが亡者と貼紙してここへ寄こしたのじゃからナ」
「神様だけに、言うことがさっぱりわからぬ」
「今にわかる」と魚心堂は、長庵とお六が、門弟どもを呼んで来ると言って玄関のほうへ走り去ったあと、ひとり造酒のかげに顫《ふる》えているお妙を見やって、
「ほんとの用は、その娘だ。その娘を取り戻しに来たのじゃ。わしが下谷まで送って進ぜようと思ってナ」
「そうか、この娘を取り返しに来たのか。そうと解れば、遣らぬ!」造酒はここで大声を揚げた。「こうするがどうだ?」
 こうする……どうするのかと思うと、やにわに大刀《だいとう》銀百足《ぎんむかで》の鞘を払った造酒だ。お妙の胸ぐら取ってそこに引き据えると同時に、紙のように白い咽喉首《のどくび》に切尖《きっさき》を擬《ぎ》した。
「来るか。来ると、一突きだぞ……」
 が、その時、長庵とお六に教えられた三羽烏他一同が、ドドドドッ! と跫音《あしおと》荒く踏み込んで来たので、あるいは敵か?――と、造酒、ちょっとそっちへ注意が走った。いや、注意が行ったというまでのことはなくても、つとその人々の動きが造酒の意識《いしき》に入って来た。と思うと、魚心堂が、ぱアッ! 投網《とあみ》を下ろすように全身を躍らして竿をしごいたのだ。糸が……蜘蛛の巣のような釣り糸が、粘《ねば》って、光って、虹《にじ》[#「虹《にじ》」は底本では「紅《にじ》」]の如くに飛んだ。絡《から》んだのである。造酒の刀身に渦をまいて纏《まつ》わりついたのだ。
 しかし、糸は糸、造酒が刀を引くが早いか、フッツリ切れたが、こういう些細《ささい》な邪魔でも、馬の眼を羽毛《うもう》が掠めたようなもので、気合《きあい》である。弾《はず》みである。微妙《びみょう》な刀機《とうき》を尊ぶこの場合、魚心堂はこの動きで、立派に先を制することが出来たのだろう。造酒が、刀を横に流して、魚心堂のかけた糸を切り放していた時、魚心堂はすでに、お妙を小腋に抱きかかえて、雨戸を蹴破って、その板戸とともにでんどう[#「でんどう」に傍点]返し、見事に庭に降り立っていた。素早く追った造酒の長剣は、それこそ銀百足のように、庭へ倒れようとする雨戸を一枚ザアーッ! と這って二つにしたに過ぎない。
 その戸を背に刀を避けた魚心堂
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