様と一緒になられ、面白可笑しくこの世を過ごされることを唯《ただ》一つの目あてに、ああしてお刀を揮《ふ》るっていられるに相違ない……。
 そうだ。喬さまには、奥様がおありなのだ。しかも、評判のおうつくしい方――。
 園絵さまとか聞いているが、言わば、その園絵さまの事から、こんどの騒《さわ》ぎも起ったようなもの。その園絵さま故に、それほどの苦労を遊ばす喬さまが、どんな事があっても、園絵さまをお見棄《みす》てなされて自分にお心をお向けになろうとは……いいえ、そういうことを考えてはなりませぬ。ゆめにも、そういうことを願ってはなりませぬ。園絵さまのおためにも、また喬さまのおためにも――。
 けれど、そうすると、この自分、妙というものは、どうなるのでございましょうか。
 ……お妙は、喬之助に会って以来、日に何度《なんど》となく自分に向ってその問いを発して来たのだが、心のどこを叩いても、この答えは見つからなかった。
 妻のある喬之助、それはわかっている。その妻を愛し、恋している喬之助、それもわかっている。
 それならば、それだけわかっているならば、スッパリと思い諦《あきら》めてしまえばよさそうなものだが、それがそうはいかないというのが、この世の中に、恋という厄介なことばが存在する所以《ゆえん》ではなかろうか。
 何事も理窟通りに、二に二を加えて四、八を二分して四ときまっていれば、誠に世話の要《い》らない人生で、その代り小説家は上ったり――ナニ、小説家なんかどうなったって構わないが、殺風景きわまる世の中になるであろう。
 お妙は、立ちどまった。艶《えん》な町娘の風俗《みなり》に、いつかの筆幸の棟上げに出した祝儀の手拭を吹き流しにくわえたお妙だ。歩くでもなく、進むでもなく、何ものかに引かれるように、何ものかに押されるように、毎夜《いつも》のように、ここまで来てしまったのだ。
 ここ……神田帯屋小路、油障子に筆太に書かれた喧嘩渡世の四字、その家の中では、お絃の姐御が、長火鉢の前に立て膝をして、何やらブツクサつぶやいている。
「おそいねえ。どうしたんだろう――?」
 と、さしずめ、うしろの柱時計でも見上げるところだが、享保の昔で、時計なんてものはないし、第一、そんな、郊外の文化住宅でサラリーマン夫人がハズバンドの帰りを待ってるような、そんな生易《なまやさ》しい場面ではないのだから、お絃の顔つきもいささか緊張している。もっとも、ふだんから、どっちかというと緊張した顔つきのお絃姐御なのだが……例によって、火鉢の薬罐《やかん》に一本ほうりこんで、御意見無用いのち不知の文身《ほりもの》を見せながら、ちょいちょい指さきで摘まみ上げてみては、またズブリと湯へ落しながら、
「アアア、何か間違いでもなければいいけど――今夜は、二人揃って本郷追分《ほんごうおいわけ》のうなぎ畷《なわて》、長岡頼母とかってやつんとこへ、斬り込みに行くとか言って出かけたんだったっけ……あたしも、これから行ってみようかしら」
 ふかしていた長煙管《ながぎせる》をガラリ抛り出して、お絃がブラリと起ち上った時、
「御めん下さいまし……」
 あわただしく表の戸があいて、転《ころ》がるように跳《と》びこんで来た若い女――息をはずませて、ピシャリ! はいって来た戸を締め切りながら、お妙は、お絃を見上げた。
「ちょっとの間、お匿《かくま》い下さいまし。悪ものに追われまして――」
「何だい、お前さんは」
 お絃は、思わず怖《こわ》らしい声になっていた。
「この頃よく家ん前を迂路《うろ》ついてる女《ひと》じゃないか。どうしたっていうのさ……」

   送《おく》り狼《おおかみ》

      一

 菊の間、雁の間、羽目の間――。
 千代田の大奥には、硝子《びいどろ》を透かして見るような、澄明な秋の陽《ひ》がにおって、お長廊下《ながろうか》の隅すみに、水のような大気が凝《こ》って動かない。
 どこからともなく、菊がにおっている。
 にっぽん晴れ。
 金梨地《きんなしじ》を見るような日光が、御縁、お窓のかたちなりに射しこんで、欄間《らんま》の彫刻《ほり》、金具《かなぐ》の葵《あおい》の御紋《ごもん》、襖の引手に垂れ下がるむらさきの房、ゆら、ゆらと陽の斑《ふ》を躍らす桧面《ひのきめん》の艶《つや》――漆《うるし》と木目《もくめ》を選びにえらび、数寄を凝らした城中の一部なので……。
 ひっそりと、井戸の底のような静寂《しじま》だ。
 と、突如、車輪《くるま》が砂利を噛むように、お廊下に沿った一部屋に、わらわらわらと人声が湧いて、
「いや、拙者も、何も強《た》ってとは申しませぬが、しかし、伊豆屋伍兵衛と申しまするは――」
「しかし……何じゃナ?」
 大目附《おおめつけ》近藤相模守茂郷《こんどうさがみのかみしげさと
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