で来る! と見せた右近、スッと退ったかと思うと、ピタリ襖《ふすま》を閉《し》め切《き》ってしまった。襖が右近を呑んだかたち……。
同時に、一同のうしろの、先刻《さっき》喬之助の消えた障子がサラリとあいたから、野分《のわき》に吹かれた秋草のように、一同が、そっちをふり返ると、今度はこっちに立っている……喬之助が。
しかも、満面《まんめん》に不敵な笑みをたたえて、挑むが如き剣尖《けんさき》を躍動させているから、今はもう不思議だなぞと首を傾《かし》げてはいられない。カッ! と怒りを発した源助町の天童利根太郎が、
「ウヌ! 愚弄《ぐろう》致すかッ!」
真っ先に打ち込むのを合図のように、バラバラバラッと縁側に雪崩出《なだれで》ると、いまここにいた喬之助の姿が見えないのだ。
「ヤーッ! どこへ行った――」
「いずくへ参った?」
「拙者はいま、眼のまえにあの顔を見て、体当りをくれてやろうと思いおったところだが……」
「喬之助とて、怪神の類ではあるまい。嘲弄致すにもほどがある」
連中はプリプリして、抜刀を引っ提げながら手分けしてウロウロそこらを探し廻っていると、
「居る、いる! ここにいるぞ」
まるで、お姫様が毛虫を発見《みつ》けたような消魂《けたたま》しい叫び声が、奥のほうから聞えて来る。保利庄左衛門、箭作彦十郎、飯能主馬、春藤幾久馬等の声だ。
「出合え! 出あえ!」
などと古風に喚《わめ》いているのもある。こっちの縁側にいて、これを聞いた峰淵車之助、日向一学、遊佐剛七郎、それに屋敷のあるじ長岡頼母等の面々である。ソレッ! というので散《さん》を乱《みだ》し、奥の間さして駈け入ろうとすると、傍《かたえ》の廊下の曲《まが》り角《かど》から、静かな声が沸《わ》いて来て、
「いや、こちらに居ります」言うことが皮肉である。「駈け違いまして恐縮……わたくしも、方々探しておりましたが――」
ヒョイと見ると長剣を正眼に構えた神尾喬之助が、うっとりしたような顔をして立っている。室内の灯を受けて、半身は明《めい》、半身は暗《あん》、染《そ》め分《わ》けの姿を冷々と据えて、けむりのごとく、水のごとく……。
「いや、ここにおる。ここにおる」
峰淵車之助が、向うの連中に大声を揚げた。
と、向うからも大声が返って来て、
「何をいう! 同じ人間が二人居ってたまるかッ? 喬之助は今ここで、俺たちと斬り結んでいるのだ」
車之助も、負けていない。負けてはいられない。現に、いま眼前に、喬之助がいるのだから……。
「何をいうとは何だ! お手前は夢でも見ているのであろう。喬之助はここにいるぞ。みんなこっちへ来い。一ぺんに遣《や》っつけて終おう!」
「馬鹿を申せ。貴様こそ夢を見ているのじゃろう。喬之助はこっちにおる。ほらほら、彦十郎を相手に刃を合わせておる。みんなこっちへ来いッ! 一|遍《ぺん》に掛って遣っつけてしまおう」
同じことを言って叫び合いながら、二手に分れて乱闘に移ったのだが、こうなると、ふたり一緒にこの長岡頼母の屋敷へ斬り込んでいる神尾喬之助と茨右近、どっちが喬之助でどっちが右近だか、見たところ全く同じなのだから、作者にもちょっと区別がつかない。
六
その、作者にもちょっと区別のつかない烏羽玉《うばたま》の闇黒《やみ》……。
夜だ。
神田だ。帯屋小路だ。人影だ。人影は、女だ。女は、下谷黒門町壁辰の娘、お妙だった。
そのお妙が……。
闇黒《やみ》だった。
周囲も闇黒だったし、心も闇黒だった。心のやみ、若い女の心の闇黒――と言えば、それは、恋以外の何ものかであり得るだろうか。
お妙は、あの職人姿で飛び込んで来て、自分が捨身《すてみ》のたんか[#「たんか」に傍点]で父壁辰の十手から救った喬之助を、忘れようとして忘れられないのだった。その喬之助は、あの夜長谷川町の金山寺屋の親分が、間違いでか好意でか――お妙はそれを、故意、しかも金山寺屋さんの好意と解していたが――喧嘩渡世の茨右近と言いくるめてくれたばっかりに、あぶないところを助かって、今はその喧嘩渡世に身を寄せ、ひたすら十七の首を列《なら》べるべく、復讐に余念ないのだが――その一|轍心《てつしん》のすがたを見るにつけ、お妙は、そうして物事に精魂を打ち込む殿方のお心もちを、頼《たの》もしい、尊いと思わなければならないと自分に言い聞かせながらも、内心、犇々《ひしひし》と淋しい気もちに包まれていくのを、どうすることも出来なかった。
喬さまは、じぶんのことなど何とも思ってはいらっしゃらないのだ。喬さまには、御番衆の首を落して廻ること以外、何の生き甲斐も、何のたのしみも、おありになりはしないのだ。いや、そうではない。
喬さまは、十七の最後の方の首を落したのち、世に隠れて、再びあの奥
前へ
次へ
全77ページ中62ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング