の出幕じゃ。約束どおり――」
 すると、大きく合点《うなず》いた造酒、一同を振り返ってガミガミ呶鳴《どな》った。
「おれが行く迄のことはない。三羽烏の一人を立てて、みんなで行け!」
「しかし先生、大矢内氏も、比企氏も、天童氏も、三人ともぐっすり眠っていて、いくら起しても起きないんで……」
「そうか。起すには起し方があるのだ。三人のまくら元で、刀を合わして音を聞かせろ」妙な眼覚《めざまし》時計だが、とにかく、こいつをやったのだろう。間もなく、三羽がらすの一人天童利根太郎を真っ先に、鏡丹波を案内に立てた同勢五十七名、瘤でら裏へ駈けつけて神尾喬之助(実は茨右近)を一|潰《つぶ》しに潰そうと、揉《も》みに揉《も》んで深夜の巷を飛んでいた。

      七

 園絵はもう築土八幡の家へ帰って、帯屋小路の喧嘩屋には、神尾喬之助がひとり、くどいようだが茨右近と同じ顔と服装で、ゴロリ手枕《てまくら》、壁《かべ》に貼った十七人の名前を見上げて、つぎの犠牲者とその襲撃法《しゅうげきほう》でも考えているところだ。
 そこへ、息せき切って帰って来た知らずのお絃……その話を聞くと、今夜、喬之助には内証で、右近が横地半九郎の家をおそったところが、源助町の道場から用心棒《ようじんぼう》が来ていて、そのうえ、一人はすぐに、もっと援兵を呼びに芝へ走り帰るのを自分は、右近について行っていて見届けたから、その足で迎いに来たのだという。皆まで聞かずに、喬之助は手慣《てな》れの剛刀を腰に四谷をさして駈《か》け出した。
 お絃、喬之助について直ちに引っ返すかと、思うとほかに用がある。もう一人、魚心堂先生を呼んで行きたいのだ。
 魚心堂先生。
 魚を追って歩くのだから、どこにいるとは限らないが、当時外神田に地蔵ヶ池という小さな池があって、当分はその辺にくらしているという先夜の話だったから、お絃がそこへ駈けつけてみると、なるほど、池の上に枝を張り出した一本の大樹がある、その枝に跨《また》がって、魚心堂先生に昼夜の別はない、夜中だというのに、いま悠々《ゆうゆう》と糸を垂れていらっしゃる。この間の晩、右近の髪に釣針を引っかけて糸引きになったあと、三人でこの池畔《ちはん》へ来て、色いろと話があり、喬之助の事件も打ちあけていざという場合には手を借りることになっているのだから、お絃は地蔵ヶ池へ飛んで行って、魚心堂が鳥みたいにとまっている樹の下に立った。
「お魚《さかな》の先生!」
 妙な呼名《よびな》だが、変り者同士のことだから、あまりおかしく響かない。
「しッ! 深夜に当って大声を発するとは怪しきやつ」ナニ、自分のほうがよっぽど怪しい。「第一、魚族《ぎょぞく》が逃げるではないか」
 大変な学者だけに、魚のことをわざわざ魚族といった。こういう言葉を使って衆愚《しゅうぐ》を感心させるのが、わが魚心堂先生の主義だというのだが、これはどうも当てにはならない。
 とにかく、お絃のはなしを聞いては、魚心堂も呑気《のんき》に釣りなどしていられないから、そこで、これだけは柄《がら》になく立派な釣道具をしまいこみ、お絃といっしょに四谷をさして駈け出す。
 この、喬之助、魚心堂、お絃の三人組と、天童利根太郎、鏡丹波を頭《かしら》に源助町から押して来た五十七名とが出会ったのが、瘤寺に近い富士見《ふじみ》の馬場《ばば》、ソロソロ東が白もうという頃であった。夜露の野を蹴って乱闘《らんとう》は朝に及ぶ。源助町の勢は驚いたろう。何しろ半九郎方で暴れているはずの神尾喬之助が、いきなりここへ飛び出したのだから――もっとも、こっちがほんとの喬之助なんだから、知っていれば、べつに不思議はないけれど……。
 未明《みめい》、さわぎを聞いた御用の者が駈けつけて来て、剣林《けんりん》、勝負をそのままに四散したが、こうして、江戸の春は更《ふ》けて、やがて青葉若葉の初夏となった。本郷追分のさき、うなぎ畷《なわて》と呼ばれるところに、西丸御書院番、長岡頼母の屋敷、全番士が寄り合って対喬之助策協議《たいきょうのすけさくきょうぎ》の最中、あるじの頼母が見つけたのだ。自室の障子に紙札がかかっている。
[#ここから5字下げ]
┌────┐
│ 忌中 │
└────┘
[#ここで字下げ終わり]
 ……このおれが、生きている死人! とは? 頼母、蒼白になっていた。

   ここに居る!

      一

 あの夜、富士見の馬場の乱闘は、無勝負に終ったのだった。こうだった。喬之助の知らぬうちに、四番首挙げて悦ばせてやろうと、茨右近が独断《どくだん》で、四谷自証院《よつやじしょういん》、瘤寺裏の横地半九郎方へ斬り込んで、居合わせた松原源兵衛をその四番首にした時、先方にも備《そな》えがあって、芝源助町の神保造酒、無形一刀流の道場から、春藤幾久馬
前へ 次へ
全77ページ中52ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング