烏と唱えたもので、上には上がある。きょう瘤寺うらへ出張って来ている遊佐剛七郎、春藤幾久馬、鏡丹波の三人なんか、強いとは言っても、この三羽烏から見れば、まるで赤子同然なので……。
 早くも持て余し出したのか、このうち一人を援兵《えんぺい》に呼んで来いというのだ。
 右近は、虚無的《きょむてき》な蒼い顔に筋ひとつ動かさず、床の間を背に、生えたように立っている。半九郎が大声に仲間《ちゅうげん》を呼んで、雨戸を開けさせたので、そこから庭へ誘《おび》き出そうとするのだが、右近は、五人に一人、広場へ出ては不利と見て、誘《さそ》いに乗ろうとはしない。
 この時すでに、あとを任《まか》せた鏡丹波は、芝源助町をさして横地の屋敷を走り出ていた。
 が、それまで庭の繁みに潜んで、芝居の舞台のように、開け放されて灯の明るい座敷に剣の光るのを見ていた、ひとつの黒い影が、吸われるようにスタスタと、かれのあとを尾《つ》け出したのを、丹波は、急いでいて気がつかなかった。
 黒い影……それは、女性《にょしょう》であった。
 茨右近とともに斬込みに来て、そとで様子を窺《うかが》っていた知らずのお絃である。ピタピタピタと草履を鳴らして、丹波を追って行ったが、途中から向きを変えて神田の帯屋小路へ。
 先方に援軍が来るなら、こっちにも援軍が必要だ。そうだ、自宅《うち》の喧嘩屋にゴロゴロしている神尾さんと、それからあの、いつかの晩のヒョンな髪引きが縁になって、腕貸しの約束をして下すった、辻説法の釣魚狂《つりきちが》い、無宿《むしゅく》の心学者《しんがくしゃ》魚心堂先生《ぎょしんどうせんせい》にお越しを願おう――知らずのお絃、白ちりめんの蹴出《けだ》しが闇黒《やみ》におよいで、尻っぽに火のついた放れ馬のよう、それこそ、足もと知らずにスッ飛んで行く。
「いや、それは。押し出してブッタ斬れと言われれば、ブッタ斬りもしようが――」
 造酒《みき》は、こう言いさして、ジロリと客を見た。
 ちょうどそのとき。
 それは源助町、無形一刀流道場の剣主、神保造酒の奥座敷である。
「有情無形《うじょうむぎょう》」と大書した横額《よこがく》の下に、大身の客のまえをも憚《はばか》らず、厚い褥《しとね》にドッカリあぐらをかいている、傲岸不遜《ごうがんふそん》、大兵《だいひょう》の人物、これが源助町乱暴者の隊長とでもいうべき神保造酒先生で、年の頃は五十あまり、眉と眉の間に、一線、刻んだような深い傷のあるのが、たださえあんまり柔和《にゅうわ》でない先生の顔を、ことごとく険悪《けんあく》に見せている。
「しかし、」と造酒は語をつないで、「探し出すのは、わしらが役目ではないでの。それには、八丁堀もあれば、お手前の手もとにも、人数が揃っておろうと思う。で、どこそこにその喬之助がおると確かにわかれば、当方から出向いて首にする……それは、まア、その時の相談じゃが――」
 客の、御書院番頭脇坂山城守が、せき込んで、何か言おうとしたとき百余の門弟が寝泊《ねとま》りしている道場の方に当って、急にガヤガヤと人声が沸《わ》いた。

      五

 頼みに来たのだ。
 八丁堀たのむに足らず、家臣を督励《とくれい》しても捗《はか》ばかしくない。このうえは、剣門《けんもん》に縋《すが》って、喬之助を見つけ次第、叩ッ斬って首にして貰い、それを証拠に、改めて許しを乞うて自家の安泰を計ろうという、山城守の肚《はら》だ。
 夜陰、ひとりひそかにこの源助町の道場を叩いて、西丸《にしまる》お控《ひか》え役《やく》の司《つかさ》、今で言えば文書課長に当る身が、羽振《はぶ》りがいいといったところで、要するに巷《ちまた》の一剣術使い、神保造酒|風情《ふぜい》に、背に腹は換えられない、ペコペコでもないが、この通り、さっきからかなり頭を下げてお願い申すを繰り返しているんだが……。
 だいたいこの神保先生は、幕府の役人がいばりくさるのを、ふだんから心憎く思っている。ことに今夜、駕《が》を抂《ま》げたぞと言わんばかりに、こうしてやって来たのが、今いった政府の文書課長。自分は浪人言わば失業者の大将みたいなものだから、はじめッから少々|頭《つむじ》が曲《まが》っている。もっとも、人を斬ったり首を落したりする物騒なことは、三度の飯より好きで、三十年来そんな事ばかりやって来て、それがまた今日あるゆえんの神保造酒、もとより嫌いな話ではない。ほんとを言えば、早速引き請けちまいたいんだが、それでは貫目が下がるとでも思っているのか、すこし焦《じ》らしてやれ――意地悪も手つだって、すったもんだ、なかなか諾《うん》と言わないから、山城守は引っ込みがつかないで往生している。
 もともと職権をかさ[#「かさ」に傍点]に命じ得る仕事でもなければ、相手でもない。が、こうして
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