一

 笹《ささ》が鳴《な》る。
 パラパラパラ……露《つゆ》の散《ち》る音《おと》。夕風だ。
 牛込築土《うしごめつくど》八幡の片ほとり、元西丸御書院番神尾喬之助の留守宅《るすたく》では。
 美人番付の横綱、伊豆屋のお園と謳《うた》われた喬之助妻園絵が――裸になっている。
 全裸体……。
 あわててはいけない。風呂場なのだ。いくら美人でも、お湯へはいる時は裸になることに、どうもこの時代からきまっていたようで。
 檜《ひのき》の香《か》のあたらしい浴室である。高いれんじ[#「れんじ」に傍点]窓からたそがれのうす陽《び》が射《さ》しこんで、立ちのぼる湯気の中に数条《すうじょう》の縞《しま》を織り出している。
 広い屋敷内はひっそりとして、ただ喬之助の弟|琴《こと》二郎が、裏庭で、柿《かき》の立樹《たちき》を相手に、しきりに、やッ! とウ――剣術の稽古をしている音が聞えるだけ。
 据風呂《すえぶろ》を嫁は上手《じょうず》に跨《また》ぐなり……川柳子《せんりゅうし》、うまいことを言ったもので、からだをくの字に曲げた園絵が、スルリせり[#「せり」に傍点]上がるように湯槽《ゆぶね》から抜け出て来て、ナニ、じぶん独りで見ているものはないのだが、それでも、あちこち隠すように流し場へ片膝つく。磨き立てて見せたい相手はいなくても、女の身だしなみだ。セッセとそこここ洗いにかかっている。白絹の膚《はだ》が、湯のあたたか味でポウッと桜いろに染まり、ふくよかな肉体が様々の悩ましいポーズを作り出す。
 美女入浴之図《びじょにゅうよくのず》。まことにエロチックな風景……だが、この日頃、なやみの多い彼女だ。
 喬之助様がいらしったら――思うのはこのことだけである。思わず、洗いかけていた手を休めて、ホッ! 小さな溜息になった時。
 もう一度、川柳子曰く……跫音《あしおと》のたびに湯殿で嫁しゃがみ。
 その、世にも恐るべき跫音が、ゴソリ、焚口の前でしたから、ハッ! とした園絵が、本能的に小さく屈《かが》み込むと、
「御新造さま、ぬるくァござんせんか。ちっと焚《く》べますべいか」
 あの喬之助の刃傷以来《にんじょういらい》、難を恐れて暇を取って行った召使いの中で、たったひとり残って家事の面倒を見ていてくれる若党《わかとう》忠助の声なので、園絵は安心をして、
「いいのよ。くべなくてもいいわ」
 何だかモダンガールみたいな口調だが、とにかく、当時の言葉でそんな意味のことを言う。白髪《しらが》あたまで若党とはこれいかに?――とでもいいたい老僕忠助、行ってしまった。
 あとで園絵。
 町人は町人並に、このわたしさえどこか町家へでもお嫁に行っていたら、四方八方、こんな迷惑《めいわく》は掛けなかったのであろうに。思えば、名あるお武家さまを縁者《えんじゃ》に持ちたいなどと大それた望みを起したお父つぁんやお母《っか》さんが恨《うら》めしい。しかも、こういうことになってからというものは、この上のかかりあいを恐れて、三河町《いずや》からは足踏みは愚か、フッツリ、便りさえないではないか。お父つぁんと言いお母さんといい、あんまりといえばあんまりなしうち……娘ごころは、ひたむきである。思い詰めると、お可哀そうなのは喬様おひとり、ああ思い切るまでには、よくよくのことがおありだったに相違ない。イイエ、園絵は決して、御無理とも御短慮《ごたんりょ》とも思いは致しませぬ。よく――よくあの、憎い憎い戸部近江様をお斬りなすった。それでこそわが夫《つま》、園絵は、この通り悦んでおります。でも、それもみんなわたくしから出たことと想えば、もったいないやら、空恐《そらおそ》ろしいやらで……その後、わたくしの受けました厳しいお調べや折檻《せっかん》など、あなた様の艱難辛苦《かんなんしんく》に比べれば、物の数でもござりませぬ。ただこの上は、喬之助さま、どうぞお身御大切に、いずくになりと身を潜めて長らえていて下さりませ。お互に生きてさえおりますれば、必ずやまた一つ家に寝起きして、妻よ夫よと――その時はもう、窮屈《きゅうくつ》な侍稼業をスッパリ廃《よ》して、わたくしは、あなた様と御一緒に元の町人に帰り、面白おかしく呑気《のんき》に暮らして――その、再び手を取り合って泣く日を楽しみに、喬さま、園絵は、園絵も、どんな憂き辛さにも耐えて行くつもりでございますから、あなた様も、おこころをしっかりお持ちなされて、雨、風、暑さ、寒さ、さては人の眼、十手の光り……どうぞどうぞ、お気をつけ遊ばすように――お身のうえを守らせ給えと、園絵は、夜|詣《まい》り朝詣り、コノ築土八幡さまへひたすら祈願を凝らしておりまする……。
 町人の娘とは生れたが、今は縁あって神尾家の奥様だ。美人は多く玩弄用《がんろうよう》で、内容《なかみ》の
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