て、おや、これあ来るぞと思っていると、必ず来る」
 呑気《のんき》なことを言っている。お絃は、お燗《かん》を引き上げた指先を、熱かったのだろう、あわてて耳へ持って行って、貝細工《かいざいく》のような耳朶《みみたぶ》をつまみながら、
「そうかえ。それは便利なものだねえ。それで何かい、きょうはその腕がピクピクしているのかえ」
 笑って訊いた。なるほど、そういうお絃の右の手の甲には、御意見無用、いのち不知《しらず》と、二行に割った文身《ほりもの》が読めるのだった。
「アハハハ」茨右近は、顔に似げなく、豪快な笑い声を揚げて、「それがヨ、今日は朝からピクピクしつづけているんだ。見ねえ、あんまりピクピクするもんで、酒がこぼれて、さかずきが持てねえのだ」
 右近は、酒杯《さかずき》を持った手をわざとふるわせて見せた。黄金《こがね》色の液体が杯《さかずき》のふちからあふれ落ちて、右近の手をつたい、肘《ひじ》から膝《ひざ》へしたたっている。
「お? いけねえ、何か拭《ふ》く物、ふくもの――」
「それ御覧、お米の水を、何だねえ、もったいない。着物だって、たまらないじゃないか。そんな真似《まね》をして見せなくても、わかっているのに。ほんとに、お前さんみたいに、世話の焼ける人ったらありゃアしない。さ、これでお拭きよ」
 ポンと投げて渡したふきんが、右近の顔に当たる。そいつを無造作《むぞうさ》に掴《つか》んで、そこらをふいている可愛い男の顔を、お絃は、食べてしまいたそうに、うっとり見惚《みと》れていようという、まことに春風駘蕩《しゅんぷうたいとう》たるシインだ。
 が、お絃はちょっとしんみりして、
「でも、ほんとに、今日あたり、喧嘩の一つも持ち込みがないと、困るねえ」
「まったくだ。こんなにアブレつづきじゃア、第一、からだが痩《や》せちまわア」
 喧嘩渡世だけに、夫婦の愚痴《ぐち》も変っている。
 そこへ、ガラッ! 威勢《いせい》よくおもての格子《こうし》があいて、聞き慣《な》れない人の訪《おとず》れる声がする。
「御めん下さい。喧嘩屋さんはこちらでございますか」
 喧嘩屋と来た。
 ソラ来た! と、ホッとした顔を見合わせた右近とお絃――さかずきを置いた右近は、そら見ろというように、ちょっと舌を出して、笑いながら右の腕《うで》を叩《たた》いた。
 お絃は、上《あが》り口のはしへ、からだを捻《
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