って、茶の間《ま》に待っているこの喬之助を一眼見た時、「あの人相書とこの若僧! 服装《なり》かたちこそ変っているが、おれの眼力《がんりき》にはずれはねえ。それに、それほどの美男が、いくら江戸は広くても、そうざらにある筋はない。そうだ! この奴こそ、いま江戸中の御用の者を煙にまいている、神尾喬之助というお尋《たず》ねものに相違はねえのだ!」と、瞬間《しゅんかん》にして気がついたくらい、それほど、美男である喬之助だ。
それほど美しい喬之助と、瓜《うり》をふたつに割ったよう、どっちからどう見てもまったく同じで、ほとんど区別のしようがないというのだから、江戸一、いや、日本一の美男がもうひとり出来たわけで、さすがに江戸は広い。神尾喬之助の分身ともいいたい、親兄弟でさえ間違えそうな茨右近――知らずのお絃と一しょに粋《いき》な世帯《しょたい》をかまえて、神田の帯屋小路にひらいている物騒な商売、自ら名乗って喧嘩渡世とは一体どういうことをするのであろうか。
旗本奴《はたもとやっこ》ではない。といって、町奴《まちやっこ》では勿論ない。が、いわば巷《ちまた》の侠《きょう》である。町の男伊達《おとこだて》である。喧嘩渡世という看板をあげているとおり、喧嘩なら、何でも買うのだ。何でも買う。直接売られた喧嘩は言わずもがな、他人の喧嘩でも、助太刀《すけだち》さえ頼まれれば、いつどこへでも飛びこんで行って、理窟《りくつ》のあるほうに味方をする。ところが、喧嘩の場合、たいがい弱いほうに理窟《りくつ》があるに相場《そうば》がきまっているから、そこでこの夫婦喧嘩師の茨右近と知らずのお絃は、いつも大勢を向うにまわして、チャンチャンバラバラの場数《ばかず》を踏《ふ》んで来たのだが!――かつて負けたという例《ためし》がない。
というのは、神尾喬之助に生きうつしの、まさるとも劣《おと》らぬ美青年の茨右近。その神尾喬之助が、虚心《きょしん》流無二の遣《つか》い手であるように、右近は、芸州浪人と名乗っているだけに、かの二見《ふたみ》ヶ|浦《うら》の片ほとりに発達しきたった、天馬《てんま》空《くう》をゆく独特の速剣《そくけん》、観化流《かんげりゅう》の大統《たいとう》をつたうる、当代|唯《ゆい》一の妙刀《みょうとう》であったからで。
静中観物化《せいちゅうぶっかをみる》――という論語のことばを採《と》ってもっ
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