辰はここだが、今頃、何誰《どなた》ですい」
 何ごころなく、雨の奥をすかし見るように覗《のぞ》いたとき、そこの路地のかげから、一度に雨に濡《ぬ》れた御用提灯の集団《かたまり》が、押し出すように現われて来た。物々しい捕手の一隊だ。四、五十人――もいたろうか。他にもぐるりとこの家をとりまいているらしく、一同落ち着き払った様子で、八丁堀の与力《よりき》で満谷剣之助《みつたにけんのすけ》という、名を聞くとばかに強そうな人が、金山寺屋《きんざんじや》の音松《おとまつ》という眼明《めあか》しと、ほか五、六人の重《おも》立った御用の者をつれて、どやどやとはいりこんで来た。
 先方も落ちついていたが、壁辰は、より以上におちついていた。彼は、ちょっとうしろを振り返って、素早くお妙に合図した。お妙も、その非常に、決してとり乱すようなことはなかった。しずかに茶の間へ行って、喬之助の前にすわった。喬之助は、もう知っていた。瞬間、血走った眼が部屋の中を見廻したが、どうせこの家の周囲《まわり》は十重二十重《とえはたえ》であろうと思うと、かれは、起とうとした膝を鎮《しず》めて、眼のまえのお妙を見た。お妙は、きちんとすわって、喬之助の眼を見つめていた。
「参りました。誰が訴人《そにん》をしたのか、わたし達にもわかりませんでございます。ただ、わたし達があなた様をお止め申しておいて訴え出たのではないことだけは、どうぞおわかりなすって下さいませ」
 喬之助が、うなずいた。しずかな低声《こごえ》だった。
「それは、よッく解っております。お前さま方が訴え出たのだなどとは、拙者は夢にも思いませぬ」
「それを伺《うかが》って、ほんとに安心致しました」お妙は、ニッコリした。「で、どうなさいます?」
 喬之助もほほえんだ。
「さア――来た以上、仕方がない。不本意ながら、お宅《たく》を血だらけに致すよりほか、まず、途《みち》はござるまい。斬合《きりあ》いには、散《ざん》バラ髪《がみ》が一番|邪魔《じゃま》でござる。手拭いを一本――」
「鉢巻《はちま》きでございますか」
 お妙は、自分のしていた緋鹿子《ひがのこ》のしごきを手早く取って、二つに食《く》い割《さ》いた。
「存分にお働きなすって――」
「かたじけない。なアに」と笑って、「不浄《ふじょう》役人の五十や六十――」
 と、喬之助が立ちかけた時、今まで、戸口に立って
前へ 次へ
全154ページ中45ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング