はなかったかも知れないが、いくらキュウピットの矢は無くても、恋をするのに別段不便は感じないのだ。その証拠には、このお妙がそれで――とにかく、これは戯《ふざ》けて済む問題ではなく、お妙は、この時はもう、立派に喬之助を恋していたのだった。
 もっとも、はじめから、そんなはっきりした心もちで、そのため、窮地《きゅうち》にいる恋人を救おうなどという気もちから、ああして父親と喬之助の間へ身を投げ出して、自分でも愕《おどろ》くような口をきいたわけではなく、あれはただ、父壁辰から受け継《つ》いでいる江戸ッ児、江戸ッ児の中でも下谷ッ児の気性《きしょう》が、あの瞬間ムラッと胸にこみ上げて来て、言わば無意識のうちに、気がついた時は、かの女はもうああした思い切った行動をとっていたのだった。何を言ったか、自分ではよく覚えていない。その中でただ一つ、いまだに自分の耳でがんがん[#「がんがん」に傍点]鳴りつづけている自分の声がある――この人は、あたしのいい人でございますよ!
 ああ、なぜ、あんなはした[#「はした」に傍点]ないことを言ってしまったのであろう。
 真剣《しんけん》の時は、思わずほんとの心が出るものだ――とすれば――こう考えて来た時、お妙は、自分が喬之助に熱恋《ねつれん》を捧《ささ》げているのであることを知って、一時に、耐《た》え切れない恥かしさが燃え上って来て、顔が、火のようになっているのに気がついた。
 あんなことを口走って、あの方は、何て下素《げす》な女であろうと、さぞ蔑《さげす》んでいられることであろう。こうも思った。
 お妙は、喬之助の礼には答えなかった。答えることが出来なかった。わけのわからない泣き声が出そうになるのを押し返すのに、彼女は一生懸命だったのだ。喬之助の顔を見ることも出来なかった。
 長いこと、白痴《ばか》のようにぼんやりと、つめたい板の間にすわったきりだった。
 騒ぎにとり紛《まぎ》れて、三人とも、筆屋幸吉が先刻《さっき》まで裏口に立ち聞きしていたことにも、身をひるがえしておもて通りへ駈け出て行ったことにも、気がつかなかった。
 茶の間では、父の壁辰と喬之助とが、ぽつり、ぽつりと話し合っていた。当りさわりのない話題だった。元日の事件のことや、喬之助の身の振り方などには、まだどっちも触《ふ》れていなかった。ただ、こう言っている父親の声が、お妙に聞えた。
「こ
前へ 次へ
全154ページ中43ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング