恋を感じているのだとすれば――それはまことに困ったことである。自分には、元はと言えば、そのことから、戸部近江之介と鞘当《さやあ》てになって、こんにちこんなようなことになったほどの、伊豆屋の娘のお園、改名して園絵という、思い思われた妻があるのである。近江の首を取って以来、こうして公儀《こうぎ》の眼を逃れて潜行《せんこう》しているのも、大体はさっき壁辰に話した通り、大迫玄蕃以下十六人の首を狙《ねら》うためではあるが、一つには、あの園絵という女《もの》があるばっかりに、自分はいま、死んでも死ねない気がするのだ。去年の暮れに一|緒《しょ》になって、築土《つくど》八|幡《まん》に家を持ってやれよかったと思う間もなく、ついに自分が我慢《がまん》し切れずに、あんな出来事が起ったのである。あれからこうして所在《ありか》をくらましているあいだも、寝る間も忘れたことのない園絵のおもかげ――それほどの園絵というものが自分にあるのに、それを知らずに、この娘が自分を恋しているとすれば――そして、そのために自分が、壁辰の十手と、近処《きんじょ》の注意から救われて、あやういところを助けられたとすれば――とりも直さず、この娘はじぶんの恩人である。が、園絵という妻があってみれば、恩人とは言え、その恋を受けるわけにはいかないのである。これは飛んだことになってしまった。一難去ってまた一難――喬之助は、そんな気がした。
「まことにかたじけのうござる。御恩は生々世々《しょうしょうよよ》忘れ申さぬ」
こう固っ苦しい礼を、気が抜けたようになって台所の板の間にすわっているお妙に述べたのち、喬之助は、手早く衣服の乱《みだ》れを直して、壁辰につづいて茶の間へ帰った。
向き合ってすわってみると、男同士である。もう何も言うことはなかった。ふたりは、軽く声を合わせて、あははと笑っていた。
五
はじめて知る恋ごころ――それは、風邪《かぜ》ひきのようなものだ。ゾッと寒気《さむけ》がして、ハアクシャン! くしゃみが出た時は、もう風邪をひいているのと同じことで、お妙が、ああこの男は、何という立派な方であろう! と、一眼見て思ったとき、その時すでに、かの女の心臓にはキュウピットの矢が刺さっていた。と、現代《いま》なら言うところであろう。享保《きょうほ》の昔のことだから、キュウピットの矢なんていうモダンな飛び道具
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