そこに気を失ってしまった。
「なに、直ぐ呼び返します。ちょいとわたくしが手当てを致しますれば――」
 折角、あの神尾喬之助の居場所を知らせに来た者が、その肝腎《かんじん》の場所を言わないうちに呼吸《いき》が絶《た》えてしまってはしようがない。気が気でないので、一同があわてふためく中で、医道《いどう》の用はこの時にありとばかり、長庵は大得意《だいとくい》だ。意識不明の幸吉を仰向《あおむ》けに寝かして、
「ちょいと、失礼を」
 なんかと言いながら、いやに落ちついて十徳を脱《ぬ》ぎはじめた。いくらまやかし[#「まやかし」に傍点]医者でも、幸吉の気絶ぐらいは直せるだろう。
 山城守をはじめ一同は息を凝《こ》らして、長庵の手腕《うで》によって幸吉が意識を恢復《かいふく》し、ふたたび口をひらくのを待っている――。
 そとは大暴風雨《おおあらし》になっていた。

      四

 そとは大暴風雨になっていた。
 で、黒門町の壁辰の家でも、早くから雨戸をしめ切っていた。乾児《こぶん》たちは、筆屋のふるまい酒に酔い痴《し》れたあげく、例によって吉原へでも繰りこんだのであろう。まだ一人も帰って来ていなかった。茶の間の長火鉢をへだてて、壁辰と喬之助がすわっていた。お妙は、父親の壁辰のうしろに隠《かく》れるようにして、もじもじとうつむいていた。
 いま、三人で夕餉《ゆうげ》を済ましたところである。喬之助と壁辰が、ぽうっと眼のふちを赤くしているのは、食前に、お妙の酌《しゃく》で、さしつ差《さ》されつしたものであろう。もうそんなにも、他意《たい》なく打ち解けていた三人であった。
 壁辰が、喬之助めがけて振り上げた十手を、さらりと打ち捨てたからである。
 あの、血を吐《は》くようなお妙のたんか[#「たんか」に傍点]――「お父《とっ》つぁん、十|手《て》、十手、十手というものは、血も涙もないんでございましょうかねえ――しっかりして下さいよ。この人は、あたしの好《い》い人じゃアありませんか」という、あれが、恋は弱い者を強くし、強い者を弱くする、弱い娘の口からこの強い言葉が吐き出されたばかりに、それには、強い壁辰のこころを弱くするだけの、まさに千|鈞《きん》の重みがあったのだ。錐《きり》のように、父壁辰の胸をもみ抜いたのだった。壁辰とても、御用十手を預っている自分が、喬之助を召し捕ろうとしたことが、
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