います。失礼ながらおやしきの勝手を心得ております長庵、ひとりで引きとらせていただきますでございます」
 言っているうちにも、サッと濡れた風が吹き込んで来て、お部屋の戸障子《としょうじ》がガタガタと鳴る。木の枝の騒ぐ音が何やら物すごく聞えてくる。見るみる世の中が真っ暗になって行くような心もちで、その闇《くら》い中で、脇坂山城守の机の上にひらいてある書物が、風に煽《あお》られてヒラヒラ白く動いて見える。
 山城守は、すわったまま身を屈ませて、軒の端ごしに空を仰いだ。
「これは、暴風雨《あらし》になりそうだぞ。恐ろしいあらしに――」
 言葉の終らないうちに、ゴウッ!――家棟《やむね》が震動《しんどう》して、パラリ、屋根のどこかに音がしたかと思うと、冬の雨は脚《あし》が早い。早やつづけさまに軒を叩《たた》いて――本|降《ぶ》りだ。
「こりゃいかぬ!」
 山城守は、起《た》ち上った。あけ放してある縁から雨滴《うてき》が躍《おど》りこんで来て、畳を濡らし、長|駆《く》して山城守の膝を襲《おそ》いそうにするので、かれはあわて出したのだ。立って行って、自分で障子をしめようとした。そして、その廊下に、まだ村井長庵がまごまごしているのを見て、
「長庵、今は帰れぬ。一まず、こっちへはいれ。はいって、雨止《あまや》みを待つがよい」
「へいへい」
 長庵と、長庵を送りに立った小姓とが、山城守の言葉に甘えてお部屋へ逃げ込もうとしていると、雨は一そう激しくなって、地面を打ち、樹々《きぎ》を叩いて、障子にも、ポツリ、ポツリ、大粒な水のあとが滲《にじ》み出している。
 遠い縁のはずれで、にわかに雨戸《あまど》を繰り出す大勢の声が、立ち騒いで聞えていた。
 と、この時、雨の吹きこむ縁側を用人の一人がいそいで来て、障子をあけるなり、
「殿様」
「何じゃ」
「下谷長者町筆屋の伜《せがれ》幸吉と申す者が、急なお眼通りを願って参上いたしました」
「なに、筆屋のせがれ幸吉が参った?」
 山城守と長庵は、ちら[#「ちら」に傍点]と眼を合わせた。長庵が出《で》しゃ張って、口をきいた。
「おや、幸吉さんが――ハテ、何か急用でも出来いたしたのでござりましょうか」
「まあ、会おう。これへ」
 山城守が用人に命じた。
 間もなく、下谷からこのやきもち[#「やきもち」に傍点]坂《ざか》までひた[#「ひた」に傍点]走りに駈《か
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