壁辰の娘お妙――あの、露《つゆ》を持った野百合《のゆり》の花のような、たおやかなお妙のすがたに、人知れず思いを寄せている幸吉である。今までにだって、機《おり》を見ては何度となく意中を伝えてあるのだが、お妙はそのたびに外方《そっぽ》を向いて、いつもつれない様子を見せて来た。しかし、拒《は》ねられれば拒ねられるほど募《つの》ってくるのがこの病だというし、それに幸吉は、若|旦那《だんな》らしく生《なま》ッ白《ちろ》い自分の男ッ振《ぷ》りに多分の自信を持っているのだから、おれの男ッ振りにうちの財産がある以上、お妙は今に靡《なび》いてくるものと思いこんで、先方は幾ら黒門町だの壁辰だのと言ってみたところで、どうせ、左官である。職人である。おやじの幸兵衛を口説《くど》き落して誰か然るべき人を立て、正式に申し込んでいけば、即座《そくざ》に落城《らくじょう》するのはわかり切っている――と思うのだが、おいらも下町ッ児だ。そんな野暮《やぼ》ったらしいことはしたくない。何とかして、お妙を自分の手一つで物にしようと思うから、お妙が知らん顔をすればするほど、どうも己惚《うぬぼ》れほど恐ろしいものはない。ああ、あれはまだ処女《おぼこ》だから、おれのようないい男に言い寄られて恥かしいのであろう。無理もねえ――なんかと、いい気なもので、いずれは望みがあることと勝手に決めているのだから、お妙が厭《いや》がって厭がって、きらい抜いているのも知らずに、何かにつけ用を拵《こしら》えては、一日に何度でも、さかんに壁辰のところへ出かけて行く。
 そういう気があるから、今日も、おやじの話を聞くと、じぶんから進んで壁辰を呼びに走り出したのだが、なに、幸吉としては、壁辰は勿論、おやじの用なんかどうでもいい。ただ一眼なりとお妙の顔を拝んで、一くちでも口をききたいという一心なんで――息子のそんな意中《こころ》はちっとも知らないから、筆屋幸兵衛は、
「ああ、伜《せがれ》は感心なものだ。若旦那とか何とか大勢の者に立てられていても、わたしの用事となると、奉公人は遊び呆けているのに、ああして自分で駈け出して行く。人を使うものはああでなければならない。有難い、ありがたい。あの幸吉がいるあいだ、この筆屋の屋台骨《やたいぼね》は小ゆるぎもしますまい。ありがたいことだ。幸吉がああいう調子なら、筆屋も筆紙《ふでかみ》類ばかりでなく、質
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