の者もそろそろ帰りかけた頃である。下谷長者町の筆屋幸兵衛は、壁塗《かべぬ》りの勘定のことで、ふと思い出したことがあるので、祝いの日ではあるが、忘れないうちにと思って、その時奥の居間《いま》にいたのが、台所へ出て来て、壁を請負《うけお》った壁辰の親方のすがたを物色《ぶっしょく》した。
「おい、そこらに黒門町はいないかえ」
「壁辰の親方さんでございますか」居合わせた下女の一人が答えた。「おや、つい今し方までそこらにお見えでござんしたが、どこへ行ったのでございましょう」
 まだ残っている者も多いので、それらのあいだを、壁辰さんはいませんかと探してみたが、どこにもいない。
「いつお帰りになったのでございましょう。お見えにならないようでございますよ」
「そうか」
 と言って、幸兵衛はあわただしく二、三人下男の名を呼んだ。が、みんな振舞いにうつつを抜かして、遊びにでも出たのか、答えるものもないのである。
「チエッ、しようのないやつらだ。酒を呑《の》むのも、今日はめでたい日だから何にも言わないつもりですが、一人ぐらいしっかりしたのがいなくちゃ、用が足りないじゃないか」
 薬罐頭《やかんあたま》が湯気《ゆげ》を上げてプリプリ言っているから、若旦那の幸吉が傍《そば》から心配して、
「おとッつぁん、どうしたのでございます。何か御用でございますか」
「あッ。壁塗りの手間賃《てまちん》のことで、壁辰さんに話すのを忘れたことがあるのだ。ちょっと誰かに使いに行って、呼んで来て貰《もら》いたいと思うのだが、どいつもこいつも喰《く》らい酔《よ》っていて、てんで家にいません。どうもこの頃の奉公人というものは呆れたもので、……」

 壁辰と聞くと、幸吉はうれしさを隠《かく》して、急に進み出て来た。
「わたしは、ちょっと今、手がすいておりますから、それでは、わたしが壁辰の親方を一《ひと》ッ走《ぱし》りに迎いに参りましょうか」
「そうだな。黒門町だから、そう遠いところじゃなし、それじゃあ、幸吉、御苦労だが、そうして貰おうか。なに、おやじが話したいことがあるから、おひまだったら顔を貸して呉れといってな、いっしょに来て貰えばいいのだ。用は大したことではないが、年とると物忘れがひどいから、忘れないうちにと思ってな、それで急いでおりますよ」
 父の幸兵衛の言葉を背中に聞いて、幸吉は、もう自宅の筆屋を走り出ていた。
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