んのしじゅうおっしゃる、嬉《うれ》しいきっぷ、こころ意気とやらいうものは、いったいどこにあるのでございましょう。鳥が逃げ場を失くして懐中《ふところ》へ飛び込んで来れば、猟師《りょうし》もその鳥を殺さないとかいうではありませんか。お父つぁん、しっかりして下さいよッ! 耄碌《もうろく》なさらないで下さいよ。これはあたしの、大事な人じゃアありませんか。厭ですねえ」
 一世一代のたんか[#「たんか」に傍点]だ。お妙は、町娘らしい何時もの内気《うちき》さをスッパリ忘れたように、こう言い切って、きッ! と父親を見上げた。壁辰と喬之助は、呆然《ぼうぜん》として立っている。
 裏の人影――それは、何時の間にか来ていた筆屋の若旦那幸吉である。彼は、久しい以前から、このお妙を口説《くど》きつづけて来たのだが、いまそのお妙がお尋ね者の神尾喬之助を恋している!――と聞くと、かれはさっ[#「さっ」に傍点]と身を翻《ひるが》えして、おもて通りへ駈《か》け出たのだった。
 どこへ行く気? 御書院番頭脇坂山城守の屋敷へ注進《ちゅうしん》に。

   喧嘩渡世《けんかとせい》

      一

 市ヶ谷やきもち坂の甲良《こうら》屋敷だ。
 その千代田城御書院番頭脇坂山城守のお上《かみ》やしき、奥まった書院である。
 広い縁の向うに泉水《せんすい》の見える部屋だ。庭いっぱい、黄金《こがね》いろの液体のような日光が躍《おど》って、霜枯《しもが》れの草の葉が蒼穹《あおぞら》の色を映している。池の水面近く、所どころに緋鯉《ひごい》の群があつまっているのが、遠くから、うす桃いろにぼやけて[#「ぼやけて」に傍点]眺められるのだ。
 脇坂山城守は、縁端《えんばた》近く脇息《きょうそく》をすすめて、客に対座している。山城守は、相撲《すもう》取りのように肥った人だ。動くと、脇息が重みに耐えてギシと鳴る。顔も、道具立てが大きくて、舞《ま》いの面のように見える。その上、表情というものが少しもないのだ。だから、作りつけのようで、長く見ていると誰でも薄気味の悪くなる顔だ。
 その薄気味のわるい顔を、早く動かすと壊《こわ》れるおそれがあるとでもいうように、山城守はソウッと客のほうへ捻《ね》じ向けた。
 退屈《たいくつ》し切ったような声だ。
「考えてはおる」と切って、「が、急には行くまい」
 じろりと客を見た。
 客は、四十二
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