こ》ひとり、その娘のいじらしい打ちあけ言に、犇《ひし》と情に打たれて低くかすれていた。
 が、口に出たのは、強い叱咤《しった》だった。
「何を、ふざけたことを吐《ぬ》かしゃアがる、惚《ほ》れたの腫《は》れたのと、そ、そんな――聞きたくもねえや。やい、どけッ! 退《ど》かなきゃ蹴殺《けころ》すぞッ!」
「え。殺されてもどきません!」お妙は、さながら鬼神《きじん》にでも憑《つ》かれたように、壁辰と喬之助の間にぴったり坐って、じりり、膝頭《ひざがしら》で板の間をきざんで父に詰め寄った。
「お父つぁん! どうせあたしは女のことで、むずかしいことは解りませんが、お父つぁんは、黒門町の、壁辰と言われる立派なお顔役じゃアありませんか。いいえ、ぱりぱりの江戸っ児じゃアありませんか。平常《ふだん》から、お父つぁんは何とお言いです? 男は気性《きっぷ》一つが身上《しんじょう》だ。こころ意気ってものが第一だ。胸の底が涼しくなけりゃア、人間の皮はかぶっていても、人間じゃアない。男じゃアない。江戸ッ児のうれしいところは、何よりも義理ってものを大事にするからだ。壁一つ塗らせても解る。心底のさっぱりした者の塗ったのは、さあッと乾いて、しっくり固化《かたま》っていて、まるっきり上りが違う。恐ろしいものだ――と、いうのは、これは、お父つぁん、あなたの口癖《くちぐせ》、十八番《おはこ》じゃアありませんでしたかしら? それに何です? その江戸ッ児の、黒門町の心意気はどこへ行ったのです? そりゃあこのお方は、いま江戸中の目あかしが、それこそ足跡を嗅《か》ぎ廻っている重い科人《とがにん》かも知れません。でもねえお父つぁん、この人は黒門町の壁辰は十手をあずかっている。ここは岡っ引きの家だと知って、それを承知ではいっていらしったのではございません。ほんとに知らずにいらしったのです。言ってみれば、この人がここへ来たのはほんの廻《まわ》り合わせ、捕えたところで、べつにお父つぁんが網を手繰《たぐ》ったわけではなし、あんまり手柄顔も出来ないじゃアありませんか。それより、あたしは、寝覚《ねざ》めが悪かないかと思いますよ。ことにこのお方は、その用事とやらが済み次第、御自分から手をまわして、きっとお父つぁんの手にかかると、お侍のお言葉です。あんなにきっぱり[#「きっぱり」に傍点]お約束なすっているじゃアありませんか。お父つぁ
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