丸《かわちたろうじゃまる》の短剣だ。そいつが、光線のように斜《ななめ》に走った。蛇丸《じゃまる》――という名のとおりに、生き物のごとく自ら発して、遮《しゃ》二|無《む》二に襲いかかってくる壁辰の脇腹《わきばら》を、下から、柄《つか》まで肉に喰い込んで突き――上げたと見えた秒間、その紙一枚のような瞬刻《しゅんこく》だった。
 ほらほらと椿《つばき》の花が咲いたように、剣と十手の二人のあいだへ、お妙が、身を投げ出して割り込んで来たのだった。
「ま、待って下さいッ! お父《とっ》つぁん、待って! 待って!」
「ええッ! そこ退《の》けッ! 娘ッ子の出る幕じゃアねえ! ケ、怪我《けが》しねえうちにすっ込んでろ!」
「いいえ、引っこんではいられません!」と、平常《ふだん》のお妙とはまるで別人、彼女はその場に坐り込んで、あっという間に父壁辰の脚《あし》に纏《まつわ》り付いた。
「おとっつぁん! 後生ですッ! 助けて上げて下さいッ!」
「な、何だと! これ、退《ど》け、退《ど》け! ええッ、退《ど》かねえかッ」
「いいえ退きません! 死んでも退きません!」
「何を言やアがる! これお妙、汝《われ》ア気でも違ったか」
「気が違っても何でも、この人はわたしの、好い人ですもの。わたしは、さっき一眼見た時から――」

      七

 裏口に、人影が動いた。それは、何気なく訪れて来たものだったが、何やら内部《なか》に、物さわがしい人の動きがあるので、かれは、先刻《さっき》からそこに、そうやって水口に耳を押し当てて、一伍一什《いちぶしじゅう》を立ち聴《ぎ》きしていたのだった。
 いまその、神尾喬之助に恋ごころを寄せている――というお妙の言葉を聞くと、壁辰も無言、喬之助も無言――不意に落ちたひっそり[#「ひっそり」に傍点]した空気のなかで、裏の人影は一そう戸に貼《は》りついて、聞耳を立てた。
 この殺気《さっき》の場面に、恋の一こと――それは、降り積む雪に熱湯を注いだも同然で、一瞬、ほのぼのとした煙を上げて、この場の緊張《きんちょう》をやわらげ、冷気に一抹のあたたかみを与える効果はあったが、お捕物の最中に、娘の口から、その当のおたずね者への恋の告白《こくはく》を聞こうとは!――壁辰は、悪夢をふるい落とそうとでもするかのように、ブルルと身ぶるいをして、それでも、声は、父一人《おやひとり》娘《
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