んたん》、韜晦《とうかい》して来たのが何にもならない。ちょっとでも変に動いたら、隠し持っている九寸五分で、唯一突き――そのまま逃げ出すばかりだ――喬之助は、われ知らず、片膝上げて虚心流《きょしんりゅう》居合抜《いあいぬ》きのかまえ、無言のうちに殺気走って、壁辰の様子に視線を凝《こ》らした。
 その、渡り職人らしくない、一分の隙もない喬之助の体配《たいくば》りが、また、壁辰をして、これは確かに武士、武士も武士、大きに腕《うで》の立つ武士にきまったと、疑いから確信へ、はっきり思わせたのだった。
 油断はならぬ! 壁辰は、相手に気取《けど》られぬようにそろそろと、内ぶところの手を丼《どんぶり》へ入れて、そこに、寝る間も離したことのない十手の柄《え》を、いざとなったら飛び掛る気、朱総《しゅぶさ》を器用に手の甲へ捲《ま》き締めて、ぎっしり握った。
 無言。眼と眼がガッチリ合って、火花を散らしそう――危機を孕《はら》んで、今にも激発しそうな沈黙が、一|瞬《しゅん》、また二瞬――。
 と!
 不思議なことが起った。
 喬之助がニッコリ微笑《びしょう》したのである。
 江戸一の美女伊豆屋のお園と夫婦になり、お園改め園絵と並んで内裏雛《だいりびな》と言われたくらい、そのお園にちっとも見劣りがしないどころか、却って、男だけにきりっ[#「きりっ」に傍点]としていて立ち勝《まさ》って見えるほどの名打ての美男だ。この名打ての美男が、気を張り詰めてポウッと上気していたところへ、何を思ったか、急にニッコリ白い歯並《はなみ》を覗かせたのだから、女なら傾国《けいこく》の一笑というやつ――壁辰、訳もなく釣り込まれて、こっちも、にっ[#「にっ」に傍点]と笑ってしまった。
 もっとも、壁辰のほうは、ふだんから白眼《にら》み一方で、あんまり愛嬌《あいきょう》のある笑いなんか持ち合わせていない。色の黒いやつが笑ったんだから、まるで炭団《たどん》が転んで崩れたよう――喬之助の焉然《えんぜん》に対して、壁辰のは――さア、何というのか。
 ま、そんなことは余計だ。
「や! おいでなせえ。生憎《あいにく》家をあけて――長くお待ちになったかね」
 親分らしく、ゆったりして、壁辰が言った。
「いえ。あっしも、ただいま上りましたばかりで、ちょいと親方にお眼にかかって、お頼みしてえことがありやして、へえ」
 どこで覚えたか、
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