喬之助は、もう言葉つきまですっかり職人になりきっている。有名な左官の名人、壁辰親分のまえだ。こちとらのような駈出しは、口を利くせえかっちけ[#「かっちけ」に傍点]ねえ――という意で、心得たもの、固くなって恐縮《きょうしゅく》している。
「ああ、そうかい」と、壁辰もすまして、「よく来なすった。何の用か知らねえが、ま、ゆっくり聞くとしよう――ちょっくら待って下せえ」
山雨は横にそれた。のんびり[#「のんびり」に傍点]した応対である。台風《たいふう》一|過《か》、喬之助はしずかに頭を下げた。壁辰も、ニコニコしてそこの茶の間の前を通り、台所へ這入ったのだが! するする[#「するする」に傍点]と背後手《うしろで》に境いの板戸を閉め切ると同時に、壁辰、顔いろを変えて、あわて出した。
台所の板の間に、娘のお妙がしょんぼり立っているのを見ると、かれは、声を潜《ひそ》めて呼んだ。
「しッ! お妙! 自身番へ――自身番へ! 裏から、密《そっ》と出るんだぞ――音がしねえように、跣足《はだし》で行けよ――」
三
そして、同時に、茶の間の喬之助へ大声に話しかけた。……
「いいお正月じゃアねえか。なあ、お前さん、どこから来なすった――やはり、関東のお人のようだね」
と、直ぐまた声を低めて、娘のお妙《たえ》へ、
「いいか、急いで自身番へ行ってナ、うちにこれから捕物《とりもの》がありますからって、町内五人組の方に来て貰うんだ――すこし手強《てごわ》いから、腕《うで》ッ節《ぷし》のつよいやつを纏《まと》めてくるように――」
「あの、お捕物――?」
さッ! と顔色を更《か》えたお妙は、二、三歩、泳ぐようにうしろによろめいて、鈴を張ったような眼で父親の顔を見上げた。急には口も利けないほど、打たれたような驚愕《おどろき》だった。
「では、アノ。あの、若いお客様が、何か――何か――悪いことでもなすったのでございますか?」
「まあ、いい。手前《てめえ》の口を出すことじゃねえのだ。汝《われ》あただ、言われたとおり、こっそりこの裏ぐちから忍《しの》び出てナ、自身番へ駈けつけて――」
と、言いかけた時に、こっちは、台所から話しかけられた喬之助である。壁辰は、水でも呑《の》みに台所へ行ったのだろう――と思っているところへ、先刻《せんこく》の、
「お前さんもやはり関東かね、どこから来なすった
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