書院番組与頭、戸部近江之介を叩ッ斬《き》って、その生首を御番部屋へ投げ込んで逐電して以来、今まで土中に潜《もぐ》ってでもいたか、頓《とん》と姿をくらましていた――神尾喬之助! ううむ、この日頃、きつい御|詮議《せんぎ》で、詳しい人相書が廻って来ているのだ。
あの人相書とこの若造《わかぞう》!
服装《なり》かたちこそ変っているが、おれの眼力《がんりき》にはずれはねえ。それに、それほどの美男が、いくら江戸は広くても、そうざらにあるはずはない。そうだ! この奴《やっこ》こそ、いま江戸中の御用の者を煙に巻いている神尾喬之助というお尋ね者に相違はねえのだ――! と、気が付いた途端《とたん》、一時ははっ! とした壁辰も、ふところ手のまま身構えていた身体をゆるめて、ちょいと、口尻《くちじり》に薄笑いを浮べた。
野郎! 百年目だッ! この壁辰が、御用十手を呑んでることを、知って来たか、知らずに来たか――この、蟻《あり》一匹逃がさねえ見張りの真ん中へ、しかも、人もあろうに、黒門町の壁辰のところへ面《つら》ア出すとは、飛んで火に入る夏の虫てえやつで、いよいよこいつの運の尽《つ》きだ――壁辰は、黙《だま》ったまま、じイッ! と、焼くように、喬之助の眼を見|据《す》えた。
壁辰は、左官が本職で、旁々《かたがた》お上《かみ》の御用もつとめているのである。岡っ引きとして朱総《しゅぶさ》をあずかり、その方でも、いま江戸で、一と言って二と下らない眼利《めき》きなのだ。まったく、喬之助はこのことを知ってこの黒門町へ来たのだろうか――それとも、ただの左官職とのみ思って、一時、下塗《したぬ》り奴《やっこ》にでも紛《まぎ》れ込んで八丁堀の眼を誤魔化《ごまか》すために、進んでここへ現れたのであろうか?
かなり長い間だった。
だんまり[#「だんまり」に傍点]なのである。
双方、眼に力を持たせて白眼《にら》み合っているのだが――喬之助は?
と、見ると、娘がひとり留守番をしているところへ上って待っていた、その壁辰が帰宅《かえ》って来た――のはいいが、一|瞥《め》自分を見るより、つ[#「つ」に傍点]と血相を変えて、いま眼前に立ちはだかったまんまだから、脛《すね》に傷持つ身、さては! お探ね者の御書院番を見破られたかな?!――と、今、ここで訴人《そにん》をされて押えられては、この七日間、苦心|惨憺《さ
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