》は、七十七歳の老人だ。が、耳も眼も人一倍達者なくせに、都合の悪い時は、いつも耳の遠いふりをする。今がそれで、
「年齢《とし》のせいか、どうもよく聞えぬ。しかし、何じゃと言わるる?」
 先刻《さっき》から、何か一生懸命に話して来た脇坂山城守は、妙に腰を折られた恰好《かっこう》で、
「いやなに、伊豆屋伍兵衛は、今回の騒動の張本人、神尾喬之助めの妻の生家であってみれば、このさい――」
 エヘン! エヘン! と、相模守は、余計なことを言うな、その先は言わぬほうがよかろうといわぬばかりに、出もしない咳払《せきばら》いをしながら、さも聞き取り難いといった顔つきで、眉をしかめ、手を、耳のところへ屏風に作って、
「あアン?」
 脇坂山城守は、一層|魔誤魔誤《まごまご》するばかりだ。
「このさい、伊豆伍のほうの油御用《あぶらごよう》はお出入りを差しとめ、いずくか然るべき――それにつけて、拙者|推薦《すいせん》いたしたきは、下谷長者町の筆屋幸兵衛なるもの……」
「暫らく」その時まで黙っていた平淡路守が、苦《にが》にがしそうに口を挾《はさ》んで、「お話の筋が違いは致しませぬかな」
「その筆屋幸兵衛なるもの、まことに勤勉《きんべん》者でござって」山城守は、言い出した以上、早く終いまで言ってしまおうと、この秋涼《しゅうりょう》に、額部《ひたい》に汗までにじませながら、「この者にお油御用をお命じつけなされたほうがよろしかろうと、拙者|愚考《ぐこう》いたし、係の者まで、それとなく申し入れましたところ、上役《うわやく》のお言葉さえあればとのこと、元より拙者、役目違いの儀は重々存じおりますなれど……」
 淡路守は、ますます苦笑の皺《しわ》を深めて、
「さては、お頼《たの》まれなされた――」
 山城守、これにはグッ! と来たらしく、人間、ほんとのことを言われると腹の立つもので、
「ココ、これは異なことを!」
 淡路守のほうへ膝を捻《ね》じ向けると、相手の淡路は、端然と袴の膝へ手を置いて涼しい顔だ。
「頼まれた――と申したが、お気にさわりましたかナ。頼まれもせで、油御用が何家へ行こうと、何屋に下命されようと、左様な小事、何もかく御老役列座《ごろうやくれつざ》の席へ持ち出されいでも……」
「小事? なるほど、高がお油のことと申せばそれまでじゃが、かりにもお城の御用を、小事とは何事――イヤサ、小事とは何《
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