顔つきもいささか緊張している。もっとも、ふだんから、どっちかというと緊張した顔つきのお絃姐御なのだが……例によって、火鉢の薬罐《やかん》に一本ほうりこんで、御意見無用いのち不知の文身《ほりもの》を見せながら、ちょいちょい指さきで摘まみ上げてみては、またズブリと湯へ落しながら、
「アアア、何か間違いでもなければいいけど――今夜は、二人揃って本郷追分《ほんごうおいわけ》のうなぎ畷《なわて》、長岡頼母とかってやつんとこへ、斬り込みに行くとか言って出かけたんだったっけ……あたしも、これから行ってみようかしら」
 ふかしていた長煙管《ながぎせる》をガラリ抛り出して、お絃がブラリと起ち上った時、
「御めん下さいまし……」
 あわただしく表の戸があいて、転《ころ》がるように跳《と》びこんで来た若い女――息をはずませて、ピシャリ! はいって来た戸を締め切りながら、お妙は、お絃を見上げた。
「ちょっとの間、お匿《かくま》い下さいまし。悪ものに追われまして――」
「何だい、お前さんは」
 お絃は、思わず怖《こわ》らしい声になっていた。
「この頃よく家ん前を迂路《うろ》ついてる女《ひと》じゃないか。どうしたっていうのさ……」

   送《おく》り狼《おおかみ》

      一

 菊の間、雁の間、羽目の間――。
 千代田の大奥には、硝子《びいどろ》を透かして見るような、澄明な秋の陽《ひ》がにおって、お長廊下《ながろうか》の隅すみに、水のような大気が凝《こ》って動かない。
 どこからともなく、菊がにおっている。
 にっぽん晴れ。
 金梨地《きんなしじ》を見るような日光が、御縁、お窓のかたちなりに射しこんで、欄間《らんま》の彫刻《ほり》、金具《かなぐ》の葵《あおい》の御紋《ごもん》、襖の引手に垂れ下がるむらさきの房、ゆら、ゆらと陽の斑《ふ》を躍らす桧面《ひのきめん》の艶《つや》――漆《うるし》と木目《もくめ》を選びにえらび、数寄を凝らした城中の一部なので……。
 ひっそりと、井戸の底のような静寂《しじま》だ。
 と、突如、車輪《くるま》が砂利を噛むように、お廊下に沿った一部屋に、わらわらわらと人声が湧いて、
「いや、拙者も、何も強《た》ってとは申しませぬが、しかし、伊豆屋伍兵衛と申しまするは――」
「しかし……何じゃナ?」
 大目附《おおめつけ》近藤相模守茂郷《こんどうさがみのかみしげさと
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