だ。
 ……こんなに静かだが、これで、ほんとにこのお部屋にどなたかいるのかしら? ふと音松が首を傾《かし》げた時、まるでその疑問に応《こた》えるように、室内から澄んだ碁石の音が聞えて来た。
 いつまでもこうしてはいられない。よし! ひとつ思い切って――と、勇気をふるい起した音松が、
「ごめん下さいまし」
 一世一代の改まった声を出して、スルスルと障子を開けながら、
「へへへ、これはお殿様、まことに恐れ入りますでございます」
 変な挨拶だ。しどろもどろで、自分でも何を言っているのかわからない。ふだんぞんざいな口をきいている人間が、相手もあろうにお奉行様のまえへ出たのみか、これから膝ぐみで話をしようというのだから、可哀そうに、律儀者《りちぎもの》の音松は、スッカリ興奮して、全身に汗を掻くばかり、やたらに額部《ひたい》をたたみにこすりつけて、何かモゴモゴ言っていると、
「あとを閉《し》めてはいれ」
 お奉行所でよく聞いたことのある大岡様の声だ。ハッとしてよく顔を上げる。むこうに、碁盤《ごばん》を前に、これもお奉行所で見たことのある、下ぶくれのした豊かな顔がある。言われたとおりあとを閉めて、へへッ! と、もう一度|平伏《へいふく》した時、大岡様が言い出していた。
「金山寺屋の音松と申す者だな」
「はい。申し遅れまして相済みません。日本橋長谷川町にて御用をうけたまわっております音松というやくざ者でございます」
「まあ、そう四|角張《かくば》らんでもよい」忠相は声を笑わせて、「もそっと寄れ」
「へえ」音松は一寸五分ほど前へ出ながら、「急のお召しで、何の御用かと宙を飛んで参りました。わっしみてえな者に、直接《じきじき》のお眼通りで、何とも――」
 しきりに頭をかいていると、越前守がいきなり言い出した。
「音松……と申したナ。わしは何だぞ、まだ一度も、早朝、富士見の馬場へ試乗に参ったことはないぞ」

      四

 池上新六郎、山路重之進、飯能主馬、横地半九郎、妙見勝三郎、日向一学、保利庄左衛門、博多弓之丞、笠間甚八、峰淵車之助、箭作彦十郎、荒木陽一郎、それに、屋敷のあるじ長岡頼母。
 及び、源助町からは、三羽烏の大矢内修理、比企一隆斎、天童利根太郎。その他、春藤幾久馬、遊佐剛七郎、鏡丹波らほか数名。大一座である。
 酒肴《しゅこう》が出ると座が乱《みだ》れて、肝腎の相談が出来
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